雪だるまが目立ち始めました。

 昨日は早朝勤務明けで午後からフリーでした。曇り予報なので、以前から気になっていた山と、とある場所に行ってみることにしました。
 南魚沼市大崎の田園地帯のど真ん中に、なぜかひょっこりひょうたん島のような小さな山塊がありますが、そこが坊谷山、300mくらいの山です。読み方はボンタン山と言うのだとか。
 眺めも良く、小出地区や浦佐地区も見渡せる展望台です。周りがほぼ田や人家ですから、万が一道に迷う(ことはほぼゼロですが)など、不測な事態であっても、そのまま藪を下ればどこかに出るので安心な山です。大崎トンネルからの登り口から山頂までおおむね40分でした。下山は、ちょっと戻って稲見神社コースから下山しました。下山口には山小屋がありました。
 町のど真ん中の里山としての価値は高い山だと思います。

 2時間かからず周回できたので、いつか行ってみたいと思っていた、廃スキー場巡りに行きました。かつてお世話になった浦佐スキー場です。私が最後にお世話になったのは34年前です。
 受講生とお茶やコーヒーを飲んだ「おふくろ」もすっかり朽ち果ててましたが、なんとか「おふくろ」の文字は残ってました。山頂レストランの「レストップ」もあちこち草ぼうぼうで、ガラスも破壊、いたるところにひび割れもありましたが、まだまだ自然崩壊することはなさそうです。リフト券売り場だったり、スキー学校の受付などをやってました「中央案内所」もまだ残ってました。
 イントラのナイター講習のはじまりは、いつもレストップ前の緩斜面「第三ゲレンデ」でした。低速技術を学んだところです。今のスキーヤーは基礎と呼ばれる低速練習をやることがなくなり、ほぼスキーの性能だけの滑走技術になっているのが現状ですが、やはり低速技術から学ぶことが大切です。板の性能は変わっても根本的な技術は普遍なのです。

 ということで、あわよくば今日も、と期待しましたが、天気は徐々に悪くなる傾向ですので、今日は自宅待機です。

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この記事へのコメント

仙台もときち
2021年12月17日 21:02
もっと 浦佐というかSAJの変節期の話が聞きたいですね。 僕もその頃 イントラに憧れていた口ですので(笑)
何故 浦佐は廃れたのでしょうか? 平沢文雄さん、関健太郎、平川仁彦、松田僑、青木稔 そして当時は 藤本進、丸山隆文、三枝兼径、佐藤正明、山口正広さんらがいました デモの立場とは何か? というテーマが ガラガラ変わっていく時期でもありました。小林平康、佐藤正人、渡部三郎と競技からの移籍組のスピード感にとって代わられた時代でもありましたね ああ 懐かしい。。。
蓬平
2021年12月18日 02:52
おはようございます⛄
ボタン山‼️昨年小千谷のMさんと登りました。ザ、里山という表現がぴったりの山ですね☺️
2021年12月18日 17:13
皆様、コメありがとうございます。
これから夜勤と明日は早朝作業の為、あらためてレス致しますね。
あさい
2021年12月19日 16:59
仙台もときちさん、こんばんは。
浦佐の話は過去のブログの中で詳しく書いていた気がしますが、後ほど確認して抜歯してみますね。
私がいた時分のデモは、山田博幸氏、中林正樹氏などでしたが、他にも多くの元デモが居ました。ですからよく添わりましたね。

浦佐の廃れた原因は定かではありませんが、やはり暖冬により、あの低山の浦佐地区では雪不足が圧倒的な原因だたと思いますし、スキー離れと、八海山スキー場に鞍替えしたのも原因でしょう。
あと、スター候補生が居なかったというのもあるでしょうね。幾分可能性のあるイントラは八海山に行きましたヵら。
あさい
2021年12月19日 17:18
仙台さん、引き続きです。
探してみましたがあまりよくわからずでした。このブログ中のスキーというジャンルのどこかに書かれているはずですが、膨大な量で発見することができません。
ざっくりですが、浦佐のお話をしてきます。
当時21歳の私は、洋菓子製造工で毎日ケーキを作る毎日でしたが、スキー指導員へのあこがれが強くなり、職を辞しました。
拠って半年のバイト後、浦佐の研修生として入りまして、元デモの五十嵐栄一さん、小幡秀雄さんが私たち研修生の教育係でした。
練習は、まずはイントラとしてもフォームづくりから始まり、基礎をみっちり仕込まれました。他にも元デモの関利一さんや平川仁彦さん、現役デモの山田博幸さん、中林正樹さん、など、そうそうたるメンバーから講習を受け、特に関利一さんの特訓は記憶に残ってますね。
片足を外した一本スキーなどは良くうやらせられましたし、それをコブの中でもやらされたりしました。イントラの研修は午後七時から九時までほぼ毎日行われ、水曜日だけがナイター無しの日であり、イントラ業務が終わるとイントラやパト、従業員総出でポイントレースが開催されました。あのドキドキ感も半端なかったですね。
まだまだいろんな話もありますが、私は結局デモにはなれず、一介の指導員とクラウンまでとりましたが、さしたる実績は残せませんでした。まぁ、たぶん、気の小ささが最も影響していたのだと思います。
また機会があれば、お話させていただきますが、ザックリそんなところでしょうか。
浅井
2021年12月19日 17:21
蓬平さん、こんばんは。
私も実は以前森山君から誘われていましたが、行けずじまいでした。
どうせなら最も外回りの周回をすればよかったかなと思います。
この辺ですと、一番里山臭が強い山ですよね。語弊がある言い方ですが、里山らしさナンバーワンと言ったところでしょうか。
あさい
2021年12月20日 17:54
仙台もときち様 追記です

 
 昔の話で恐縮ですが、私ら7名ほどが浦佐のスキー教師研修生として採用されたのは、今から約40年も前の事です。それまでの浦佐はデモンストレーター養成学校のような様相で、デモの数も半端なく居ました。ですが、その後デモ認定者も少なくなり、私たちが入ったころには現役デモは2名のみでしたが、それでもすごい数だと思います。ですので、当時はどういう主旨でそういった研修生制度がはじめられたのかは解りませんが、若いものを育てようとする主旨があったのかもしれません。若しくは、プレイヤー輩出としてのスクール売名は取りやめ、単に一般的なスキー指導者を育成するだけのために我々を募集したのかはいまだ解りません。
 私たちを教えてくれる担当の先生は、元デモのОさんとiさんでした。研修生の中には、スキー初心者の者もいて、そういう人たちは違う勤労場所で働き、スキーを履くのはナイターのみという環境でした。私たちも最初、色んな部署で勤務させられましたが、正月を過ぎたあたりからアシスタントとして現場に出てました。
 まず、私たちが教わったのはスキー指導者らしい手の構えや基本姿勢でした。指導者らしい趣と言いますか、如何にも素人っぽい外見だとマズいわけです。徹底してやらされたのは、直滑降で手の構えをしっかり意識して滑るという練習がかなり多くの時間を占めた気がします。
 考えてみれば、手の構えなど、フリーで滑っていたころには全く意識していませんでしたが、浦佐に入り徹底して練習したせいか、自然とそういう構えができるようになりました。今でいう、ふところの深さという部分なのだと思います。構えを作り、上半身の懐をしっかりとることによって、下半身の動きもスムーズにできるようになるとの目的があったのだろうと今では理解しています。
 iさんの研修は割と緩斜面の低速での練習が多かったと記憶しています。止まるようなスピードでターンを開始したり、斜滑降や横滑りから次のターンに片足で入ってみたりと、低速の難しさと、操作の正確性に度肝を抜かれたのを鮮明に思い出します。まさに低速の凄さ、低速でここまで具現できる技を垣間見、やはり元デモというのはすごいなと思った次第です。
 iさんの体形は重戦車のようで、繊細な緩斜面での滑りはもちろん、急斜面や悪雪での滑りも圧巻でした。一方のОさんはコブ斜面のスぺシャリストで、まるでスキーのソールに吸盤が付いているようにハイスピードで滑れる方でした。
 私たち研修生も、初心者さんなどのレッスンを行ったり、雑務をこなしたりしていましたが、夜の7時になるとスキー指導員・パトロール・従業員全員のスキー研修が約2時間毎夜行われました。そこでの講師は日毎に代わり、Оさんやiさんより古い時代の元デモの方が教えてくれることもありました。その方はsさんと言い、とにかくスパルタ式というか熱血指導をされる方でした。コブがたっぷりある山頂から下のリフトのリフト乗り場まで小回りターン(昔で言うウエーデルン)を連続7本くらい滑らされたり、コブのなかを片足で滑らされたりしました。コブの中を片足で滑るのは、大変でしたが、整地されたバーンでは浦佐時代にできるようになった気がします。
 浦佐はスクールのお客さんがメインのスキー場でしたから、コブはよくできました。圧雪車は基本的にコブは滅多に削らず、ほぼ残ったままでしたから、急斜面は常にコブ斜面でした。コブばかり滑っていると、コブにしか対応できず、たまにコブが削られるてしまうと、逆にスピードオーバーになる事がままありました。
 朝一番に指導員詰め所に行き、掃除や除雪を行い、自主練。それからコース別の担当のレッスンに就き、昼食は生徒さんと一緒に摂ることになっていました。コースは、一般的な常設クラス(「日帰りで2時間単位のもの)は、主に非常勤の指導員が担当し、我々常勤者は3日間コースが2種類、1週間コースなんて言うのもありまして、それをそれぞれ担当させられたのです。昼食の後はなかなか疲れて練習する気になりませんでしたが、なんとか頑張って数本滑って練習しました。午後も2時間レッスンしたあと、従食の時間まで自主練。さらにナイター研修2時間というスケジュールでしたから、かなり疲れました。そんな殺伐とした環境でしたが、生きているという実感がありました。
 研修生時代は殺伐としたシーズンを送ってきたわけですが、春になりスキー場が閉鎖になると、燃え尽き症候群のような精神状態になったものです。何もやる気が起きなく抜け殻のようでした。雪が解けだしても残雪を求めては雪の感触を追い続けていた年代でした。
 以前にも書かせていただきましたが、研修生の初年度に一級を取得し、次の準指導員へと目標を定めていましたので、シーズンオフもイメトレに精を出し、私の滑りはがらりと垢抜けしたのでした。それが2シーズン目ですね。2シーズン目は準指導員を受験するべく望んでいたのですが、研修生同士の中で今年は受験は回避しようという勢力があり、結局その年は消化不良でした。 
 3シーズン目は、満を持しての準指導員検定でした。その年から教程は大幅に変わり、いわゆる加圧押し出しという奇妙な指導法が発明され、プルークから片方づつ雪面を圧した結果、もう一方のスキー板のトップを上げるというものでした。スクールでもあちこちの猫の額ほどの斜面でトップ上げという奇妙な指導法が見られ異様な光景でした。当然、その年は加圧押し出しによる新しい準指導員の種目が登場し、大いに困惑しました。
 私のなかでは、加圧押し出しというのはあくまでも指導種目で緩斜面で行うもの。急斜面や実践種目では対応できない、という考えの切り替えを行う事にしました。 指導法の中に理論があり、それを学ばせるというよりも、それは一つの商品であるという考え方に徹していました。なぜなら、加圧押し出しのトップ上げをしながらコブ斜面なんて滑れませんし、あくまでもスクールの商品であるとの考えに徹していました。ただ、それを生徒さんに教えなければならず、そこが嫌な部分でしたね。教える側が納得してませんから変な時代でした。それでも、当時は新教程という事で各地から挙って生徒さんが来たものです。
 3シーズン浦佐で過ごし、新しい指導法やらいろんなものが色褪せ、私は去ることにしましたが、ここでの3年は燃え尽きたという充足感を感じた時期でした。年間100日スキーを3回過ごしたわけで、あんなにスキーをしたことはなかったですね。ただ、その割に巧くならなかった(のちの大原で実績を残せなかった)のは、自分の気の弱さだと思います。 
 すでに浦佐スキー場は廃墟となり、国道から見える山頂レストランは未だにありますが、いつかシールを着けて登ってみたい気に駆られることが最近あるのです。
 いい時代でした。生徒さんがたくさんいて、それもすべて自分よりも少し技術が劣るレベル程度で、初心者の生徒さんなどほぼ居ませんでしたし、日々生徒さんの前で下手な滑りはできないという緊張感の中でのレッスンでした。
 あの、濃密な3年が忘れることができず、まだこうして老体に鞭打ち、スキーをやっているのでしょう。

 

もときち
2021年12月23日 11:31
いやあ 広大遠大なスキー人生でしたね 3シーズンも浦佐におられたんですね  当時の話が聞けてとても嬉しいですよ。浦佐の雪は重かったんでしょうね 志賀の雪は首を傾けるだけでターン始動できたのに 浦佐じゃ曲がりません 低速でターン始動を始めようとすれば体のどこかに無理がかかりましたもの。。。

長文 大変な重さで受け止めました やはりスキースクールの現役って かなりの時間をスキー漬けにさせて いわば没頭でしょうか? だから雪ぎえの春になるとバーンナウトしちゃうんですね 分かる気がします。僕ら仙台のスキーヤーにとって浦佐や八方は雲上でしたから 凄い憧れがありました。「一級の重み?」が違いましたもの。片足滑走はコブでは弾かれて自爆ばかり 何とも為しえませんでした。

貴重なお話をありがとうございました 浅井さんも 思い出話に青春の苦み旨味も加わって 若返ったんじゃないでしょうか?(笑)また お聞かせくださいね。