四月も今日で終わり&お知らせ(お願い)

 メンテで施した傷が少し痛痒くて、あまりガンガン歩くという事がまだできない状態です。なので、勤務仕事は連休明けからとなります。
それまで、軽く山菜採りにでも行ければいいのですが、まだ何とも言えないかなという感じですね。

 今月も終わります。今月の前半は大木の伐採工事があり、なかなか初の貴重な経験をさせていただきました。刃の長さが1m近いチェーンソーを使って木を伐ったこともいい経験でした。なかなか上手に、いい仕事をしてますねぇ~、なんて仕事はできませんでしたが、大目に見て欲しいかなと思います。


 今月中旬に、入広瀬地区の民宿旅館組合の総会で、一応当地区はGW期間は営業自粛しようとの方向が出ています。当宿の場合も、GWに奥只見丸山でスキー練習をされるお客さんのご予約をいただいていたのですが、それ以前に奥只見も営業休止となり予約はゼロでした。今後も連休が明けるまでの間はとりあえず継続自粛とさせていただきます。ちょっと今メンテが終わったばかりなので、この連休を利用し、自分のいろんな部分を高めるというわけにもいかず、まぁ、ソフトな部分で何か将来のために蓄積ができればいいなとも思ってます。


寒いですね

 おひさしぶりです。某所で体のメンテナンスをしてきまして、一昨日帰ってきました。帰りに寄り道をして田子倉まで行ってきましたが、上はまだスラブ状になっていて、ここからの登山は当分無理でしょうね。
 六十里登山道も県境鞍部まで、トラバース部分は結構雪がある感じでした。
 里はすっかり雪も無くなり、農耕の仕事が繁忙期になる時期となってきましたが、山はまだまだのようです。ですから、まぁ、雪消えとかは例年並みか、やや早といったところでしょうか。そう言えばまだオオルリは来ていない気がします。
 今日は暇を見て(一日暇ですが)ネズモチ平方面へと行ってみたいと思っています。

山の話㉚ 

 あらためておはようございます。いよいよ30回を迎え、有ることないことを好き勝手に書かせていただきましたが、しょせん素人山屋の独り言ですのでコラム的にとらえていただければと思います。
 恥ずかしいことなのかもしれませんが、私はあまり登山用品を持っていません。普段着のまま山に行きますし、履物はなるべく減ってきた作業スパイク長靴です。山林仕事では急傾斜地の刈払いや伐採などがあると、しっかりしたグリップを保つ必要があるので、わりと新しめのスパイク長靴を履きますが、自然環境保護や八十里越えトレッキングなのでは、なるべく磨り減ったスパイク長靴を履きます。他のメジャー山域では一応登山靴で行きます。整備などで行く場合、登山靴では仕事にならないからです。
 長靴にもいろいろあって、私が履いているのは山林用のdaidoというメーカーです。作りがしっかりしていて重いので、残雪期のキックステップも得意です。その分値段も高く、私が履いているいちばんグレードの低いもので1.3万くらいです。昔、ゴムが高くなかった頃は7千円くらいだったのですが、ほぼ倍になっています。これを森組作業含め、年に一足半使います。ですから足代だけで毎年二万くらいは必要になりますから、如何に登山靴の方がリーズナブルという事でしょう。でもやっぱり登山靴では仕事にならないんですよね。


 最近感じるのは、登山者の服装がカラフルになってきたということですね。服装に限らず雨具やザックなど、時代遅れの格好をしていると私自身に恥ずかしささえ感じてしまいます。ただ、私は主に作業登山ですから気楽とも言えますが。
大勢の登山者の中で自己を表現するスタイルもまた、登山のおしゃれを楽しむという要素でもあると思います。
山そのものを楽しむことプラス、大勢で車中いろんな話題や、山のギア自慢とか、休憩時のおやつだとか食事だとか、そういうサブ的な部分も山での楽しみ方だと総括できるのではないでしょうか。


 今年の冬は正直散々なものでした。46年営業し続けた大原スキー場が営業を断念。加えて未曽有の少雪で山スキーは最悪の条件でした。そしてコロナ問題。さらに・・・ですから。
逆にそのおかげでというのもなんですが、普段の冬のスタンスは週3日ほどスキー場リフト係勤務をし、残りはスキーイントラという流れがありました。しかし、前出のように地元スキー場が消え、須原スキー場への出向が言い渡されたはいいのですが、そこも少雪でわずか30日程度の出勤に終わりました。おかげで真冬に暇ができ、1月2月3月と結構山スキーや冬山トレッキングをする機会に恵まれました。そういう部分ではとても充実した冬でした。その中で、あらためてテレマークスキーのパウダー滑りの楽しさを体感できましたし、山スキーってやっぱり最高!っていう実感を得ることができた気がします。


 2月からシリーズでお送りいたしましたいろんな山のお話やらスキーの蘊蓄などなど、かなり語りつくした気がしますし、重複している部分もあろうかと思います。
今回こういった記述をしたのは、いろいろと思う事があってのことですが、自分への覚え書き記録として書いたというのが実際のところです。
 スキーの蘊蓄など、いろいろとしゃべり過ぎてる部分もあろうかと思いますし、あとで読んでは赤面状態になる部分もあろうかと思いますが、それはそれでよしとしたいと思っています。

 お送りいたしましたブログですが、中休みをし、一週後(もうちょっと早まるかも)くらいから再開といたします。
しばしPCを離れる環境となるため、気持ち玉やコメントなどがあってもしばらく反応しないと思いますのでご了承ください。
いつもお読みくださり、ありがとうございますm(__)m

山の話㉙  他

 山でのトラブルで書き忘れたことが一点ありました。もう大分前の事なのですが、単独でネズモチ平にウサギ狩りに行った時の事でした。据銃する際に頬に銃床を添えるのですが、眼鏡をかけたりすると邪魔になるのです。なので、私はほぼサングラスを着けずに山野に入っていました。たまたま、3日間とも好天に恵まれ、2日目にはだいぶ目に来ているという感覚はありましたが、3日目も好天でしたので、これはもう行くしかないと思い行ったのでした。ところが3日目が最も紫外線がきつく、ついに激痛で目が開けていられないほどになってしまいました。基本閉眼するしかないのですが、盲目で雪山は歩けません。かろうじて目星をつけ閉眼しては歩き、ときおり薄目をあけては現在地を確認しつつ家に戻りました。夜は目が痛く一晩中冷湿布をして寝ました。一晩冷やし、朝起きてみると嘘のように楽になったという事がありました。以来私は、サングラスまたは乱視用の眼鏡をかけて雪山を歩くようにしています。


 山の話をずっとしてきましたが、読む側になってみれば、ずいぶん山好きなお人(私、浅井)だろうなというご感想を持たれるかと思います。しかし、子供時代は山が大嫌いでした。私は幼稚園というものには行かせてもらえず小学校1年から毎日8キロの道のりを歩いて通いました。朝は毎日5時半に起床し朝飯をさらいこみ、開拓村の子供たちとともに6時半に出ます。1時間かけてゆっくりと道草などをしながら学校に行きました。帰りも同じ道を辿りながら帰りますが、帰りは登りでした。
文明的なものは何一つなく、日が暮れて自家発電の暗い白熱電球は夜の7時までとなり、メディアはラジオのみ。初めて電線が下の部落から引かれたのは、小学四年生の時でした。あまりの明るさに照れくさくてどうしようもなかった記憶がよみがえってきます。翌年テレビが入りましたが砂嵐に物体が見える程度でしたが感動ものでした。 なので子供時代は山は嫌いでしたし、社会に出てもしばらく山とは無縁の生活を送ってきました。ところが再び傾倒し始めたのは20台中盤にキノコ採りに夢中になってからでしょうか。のちに山菜採り、狩猟とフィールドは本格的になっていったのでした。
今現在は、山を主とした題材の詩や散文(現代詩フォーラムでは山人というハンネで投稿)を書いてはネット投稿したりしていますし、BWや山スキー、整備、カモシカ調査、自然環境保護業務で近くに山々を中心に年中登っています。また、家業のほか、勤務仕事で森組に行っていますので、常に山と触れる生活となっています。
つまり、今は山はいろんなアトラクションが楽しめる場であるといっても過言ではないでしょう。

山の話㉘  他

 今日はキノコの榾木切りと薪材の積み込み作業でした。途中で冷たい雨が雪に変わったり、呆れながらの作業でした。さすがに積もるまでには至らずで、今年は雪が異常に少ないのにだらだらといつまでも寒い日が続いています。
 旧入広瀬地区に下ると初夏の緑が目立ち始め、来週あたりからこちらもブユなどの虫が活動を始めることでしょう。

 山で怪我や体調不良になったことが何回かありました。体調不良は主に疲労の蓄積と慢性病プラス大量飲酒によるものが多かったようです。あとは飲酒と寝不足ですね。これにより、同行者に迷惑をかけたことがありました。というよりも、化け物みたいな体力の人と一緒に行くことが多かったので反面仕方ないですね。体調不良とは言えなくもなかったのが、昨年の守門岳の除草の時でした。特にひどかったのは布引の滝の除草でした。
作業を30分と続けることができないほどでした。
 怪我はかなりありましたね。森組での杉の4m枝打ち作業でトップハンドルチェーンソーで1年ごとに2回ほど膝の両サイドを縫合しました。
次の年には栃尾道院の杉林で刈り払い機で足の指の下を切傷。これは思いがけず大怪我となり、その日に手術し鋼線を骨に入れ縫合し、結局全治2か月(鋼線を抜く手術をし、ふたたび抜糸をするまでの期間)となりました。
 測量会社の手伝いで道きりを行った際、鋸で腿を切りましたが、なんとか自前の救急セットで簡易治療し、そのまま作業したり、官民界の道きりでも鉈で切傷。この時は数針縫ったと思います。
 昨年の布引滝登山道の除草時に、刈り払い機の刃の破片が目に入り、これは強烈な痛みで家人を頼み救急外来へ行きました。角膜の上に破片がのっかってる状態でしたので最小限のダメージで済みましたが、乱視は増してしまったようです。
 あとは蜂ですね。森組ではほぼ毎年刺されます。これはもう諦めるしかありませんが、蜂が居そうなところはおよそわかるものです。やだそれは木に巣を作る蜂についてのみであって、土の中に巣をつくる蜂については予測不可能です。一昨年は同僚の平井氏がオオスズメバチの土中のハチに刺されダウン。さらにそれを退治しようと殺虫剤をもって近くに行ったところ、さらに返り討ちに有ってしまったとのことです。おかげで以来彼はアレルギー抗体数値が一気に上がってしまい、エピペン持参することになってしまいました。他の森林組合作業員もそういう方がいて、携行している方も居るようです。
 去年は7月に一度アシナガにやられ、8月末にクロスズメバチに3匹同時に刺されました。すべて手袋めがけて襲ってきました。手はもっとも動く箇所(刈り払い機やチェーンソー仕事の場合は)なので、そこを目掛けて襲うようです。実は7月に蜂に刺されていたので、ゴム手をそれまでしていたのですが、たまたまその日はしていなかったのでした。
 蜂含め虫毒には強いのですが、得体のしれない虫で首とか肌がぼこぼこになる事があります。全く身に覚えがないのですが、得てして木の枝に触ったり柴を捨てたりするときに多く現れるような気がします。
 虫はそこに生息する生き物と森林との生態系の中でとても大切な役割を担っていますが、彼らも生きなければならないため、吸血したりという行為に遭遇するのはは免れません。幸い私はアブ・ブユや蚊に食われてもほぼ次に日には全く痕跡すら残りませんが、中にはぼこぼこに腫れ上がる人もいるらしく、気の毒としか言いようがありません。
 虫に刺されるにはまぁ赦しても良いと思いますが、眼球の中に突撃してくるオオマダラメマトイあるいはメマトイは勘弁して欲しいなと思います。彼らは眼球の涙を吸いに来るという説と、眼球の黒い色に繁殖的な反応を示してという説もあるようです。にしても、目の中に入り込むわけですからほぼ涙で溺死します。まさに神風ですね。こういう時にはネット被りしかありません。

山の話㉗ 狩猟の思い出③ 他

 昨日は家族の怪我などで午前中は医者でした。午後から他社のお手伝いで県道の清掃作業でした。どっちみち、この地区県道は7月から私たちが除草作業で請け負うので道路側溝掃除は大いに助かります。小雨で息も白くなる中、新緑も生えてミツバアケビも伸び始めていました。こういう作業をしていると世の中の情勢など絵空事のようです。夏鳥は普通にやってきて、新緑は新しい季節を彩り始めるのです。

 狩猟シーズンではチームで捕るという部分において、熊猟は最大のメインイベントでした。一旦、通常猟期や野兎駆除期間が終了し、残雪期に有害駆除として熊の駆除の期間が20日ほど許可されます。
 熊を捕るためには冬眠の場所を見つけるというところからの作業となり、ベテラン猟師たちは冬眠場所をほぼ把握していました。その場所を「ヤス」と呼び、その近くに行って足跡を確認したり、動き出したかどうかを調べることから熊狩りのシーズンははじまります。
 熊の居場所が特定されると、翌日に長老宅に寄り集まり人員が大まかに振り分けられます。
 熊を捕るためには、人員配置が大切で、リーダーはメアテと呼ばれ、熊の動きを見ながら各人員に無線連絡し人を動かします。地形によっては、メアテのサブのような人員が配置されることもあります。次は射手で、鉄砲場と呼ばれる配置です。ここは一人ではなく、熊が逃げてくる場所をそれぞれ想定し、複数振り分けられます。次は勢子。勢子は一般的に熊を鉄砲場まで追う役目ですが、地形や人員数により、鉄砲場と勢子の間に受け勢子として入ったり、鉄砲場のサブとして入ったりします。
 前日熊がいたとしても、同じ位置でじっとしているわけではありません。ですので、その現場に行き、熊の実体を確認する必要があります。特定の見晴らしの良い場所で、それもぽかぽか陽気の時などは眠気が襲ってきたりします。実に暢気に皆皆が双眼鏡であちこちを眺め、あれは黒いぞとか、あれは違う、だとか言いながら、時にはグーグーいびきをかいて寝ている人もいるくらいでした。
 その暢気なムードが熊の発見とともに俄かに激変します。熊の位置が思っていた場所と違ったりした場合は、若手は特に過激な移動を指示されます。「んな、あのてっぺんまで早く登れ」と、はるか向こうの尾根を目掛けてさらりと言われることが結構ありました。そのためには一旦上った尾根を再び沢まで下り、また登り返す必要があるのです。それも途中途中に藪が露出していたりすると歩き難いものとなります。息も絶え絶えで登っているにもかかわらず、無線からは「まだだか、早く登れ」ときつい指示が。「よし、そこらで待て」との指示でホッとした時、本来私のところに熊が来る予定ではなかったのに、「んなのところに向かって登っていくぞ、良くタメてぶて!」・・・・今で言う「マジかよ」っていう感じでしょうか。案の定無線通りに私の30m下からぬっと出てきたではありませんか!。しかし、ノミメンタルの私でもそんな時には肝が据わるもので、熊の月の輪めがけて2発発砲し、何歩か歩いた後下部に落下。初めて熊を射止めた瞬間でした。以降、私は痛い失敗もしましたが、もう1頭行方不明になってしまった熊も入れ、2頭の熊を撃たせてもらいました。なお、この日行方不明になった熊の捜索記事の続きはここ。翌々日はこことなります。
 熊猟で得たことは毛猛山塊への入門だったことと、黒姫周辺の猟などで、烏帽子や八十里などの布石になった気がします。
 当時、たくさんいた猟友会員は高齢や亡くなったりで年々減少し、今では数えるほどになったようです。しかし、30台の人も数人増えたようですし、細々とですが伝統は引き継がれていると思います。

 さて、山シリーズ含めスキーのお話やらいろいろと2月からずっと配信(笑い)してきましたが、一応明日で一旦終わりたいと思います。ただ、切りのいいところで終わりたいので、30回分まで書く予定でいます。よって、明日含め、今日夕方また新たに記事を書く予定でいます。御期待(笑)下さい!












山の話㉖ 狩猟の思い出② 他

 昨日は鬱陶しい天気で、勤務仕事はパッとせずでだらだら仕事してました。一人仕事をしているとクロツグミの声がして、ようやく本格的な夏鳥がやってきたのだと思いました。

 昨日は鴨猟の話をしましたので、今日方はウサギ猟となります。
 ウサギは昔からこちらではよく食べられてきました。どちらかというと決して美味い方ではなく、地味で脂もなく、はじめて食べる人にとっては特有の臭みが嫌だという人もいます。ジビエ料理というと、イノシシやシカ、鴨などが一般的には美味しいとされ人気があります。しかし、当地区ではイノシシやシカはいなく(小雪で最近は見られるよになってきたが)冬と言えば確実に捕れるウサギが唯一のたんぱく源でした。子供時代から食べ慣れてきたウサギ汁は骨ごとズットン切りした肉塊が鍋に入っていて、骨毟りをしながら食べるあの味はこの地区では誰も忘れられない味となっています。ですからお世話になっている人たちにお届け物として重宝されていました。
 ウサギ猟に適した日は、鴨と違い晴天で夜雪が少し降った日がもっと適しています。ウサギは夜行性で、夜雪が降っている中を求愛行動や採食で過ごします。その活動痕が朝になっても残っており、その足跡を見つけて捕るという手法です。夜明け前にウサギたちは活動をやめ、木の根元などのシェルターにもぐりこみます。そこに隠れる際に巧妙に足跡を変えます。一旦進んでそのままターンし、途中でジャンプして近くの木のたもとにに潜り込むというカムフラージュ痕を作ります。老練なウサギはこれを何度も繰り返し、複雑なカムフラージュ痕を作ることもあります。また、どんな場所にウサギが潜むかという特徴もある程度抑えておかないといけません。やみくもにウサギは潜んでいるわけではなく、必ず雑木林の斜面に沿って斜めになっている木のたもとであり、日当たりが良い場所であることと、目立たない木の根元であることなど特徴を会得する必要があります。
 ウサギ猟はソロであっても巻き狩りであっても現場に行けば踏み跡など無く、一人ラッセルとなります。ラッセルしつつ銃を構え、居れば射撃になるのでまさに体力勝負です。息も絶え絶えであっても、そこに狙点があれば引かざるを得ません。そこらへんがただ山に登る行為に没頭できる登山とはかけ離れたところです。
 単独ウサギ猟ならず、巻き狩りでも、ある一つのピークを目指すものではなく、ひとつの猟場としての広範囲な面積をトラバースしらがら猟行為をしつつ進んだり、ふたたび下ってまた上るという行為の連続です。そこにウサギの痕跡があればの事ですから当然そういった山歩きとなります。
 一日中、獲物を求めて山野を徘徊し、獲物があった時には疲れも軽減されますが、ボーズに終わった時の虚しさは計り知れないものがあります。登山では、天気が悪い日であっても山頂に立った時の感慨はひとしおで、下山後もよどみなく達成感に支配されますが、狩猟でのボーズは達成感もなく、疲労のための疲労であったのだと思い知らされます。
 狩猟は正直好きな行為でした。しかし、好きなウサギ猟でも獲物は減り、捕れなくなり、結果として猟欲が私の中で失われてきたのでした。やはり達成感を感じられない山歩きは嫌なものだとつくづく感じ銃を置いたのでした。

マニアックな話で恐縮です。明日は猟の最終話となりますが熊狩りの話をメインにしていきたいと思います。

山の話㉕ 狩猟の思い出① 他

 この土日は天気が良くなく、晴れれば山にでもと思っていましたが結局山に行く天気ではありませんでした。なので、相変わらずの内容もない休日となりました。そんな中、土曜に少し動画を撮ってもらい、昨日も1時間ほど撮ってもらいました。   です。
 考えていた課題を試してみたのですが、割とイメージ通りだったので少し安心しました。こんな感じで、テレマークスキーも少しづつ引き出しを増やせればと思っています。特にショートターンはバランス保持を優先していたので前後のスタンス幅が広くなっていたようです。もう少し重心の中心位置をワンポイントに絞ることで切り替えの早いターンができると思います。

 今日からは狩猟時代の思い出について書いていきます。
前にも書きましたが、2017年4月で銃所持をやめました。29歳で所持しましたから、おおむね30年の猟人生でした。最初は当たらず罵倒されたりし、それでも続けてきたのはそれだけの魅力があったと言う事でしょうね。
 猟は最初はよく複数で連れて行ってもらっていたというスタンスでしたが、次第に煩わしいのが嫌で単独で出るようになりました。これが良かったのか悪かったのかはいろいろと自分的に賛否はありますが、取りあえず私はそのスタイルが好きでしたし自分に合っていたと思います。
 猟期は11月15日からで、通常その時期はまだ雪が無く一般的には鴨猟となります。池に前もって忍んで待機し、日の出の時間を待ちます。時間を日の出時間を確認し鴨を捕るというスタイルでした。最初は一途に暗いうちから池の周りに忍んでいましたが、鴨が来ない時もあったりで決して効率の良いものではなく、次第に早朝のそれはやめました。
 鴨猟を1人でやっていると、鴨が居そうな池や、時間帯や気候などおよそ掴めてきました。渡ってくる鴨はおよそ猟期前からやってきて、あちこち移動したりしながら生活し始めます。
 猟期解禁日にはまだ警戒心の薄い集団が多く、それらの鴨を狙っての猟となりますが、徐々に警戒心を持ってきます。コロニーの中には必ず見張り役の鴨が警戒に当たります。この見張り役の警戒をどう突破していくかがカギでした。まず天候は晴れていてはダメでした。初冬特有のまぶしい日差しで湖面の縁が反射し、鴨の本体がまったく見えず仮に飛んだとしても発砲行為がまぶしくて私は嫌でした。ですから、鴨猟の最適な日は曇り空か雨、もしくは嵐に近い風雨の時でした。風があったり雨天時でも鴨たちは一向にかまわず採食し、生活しています。鴨たちの羽は防水されていますし、雨は全く苦にしません。むしろ支流から流れてくる木の実などを食べれるチャンスに恵まれたりと、ありがたい天候なのです。よって、鴨たちはそれらに夢中になり、雨天時や風雨の日、あるいは雪の日などは警戒心が薄れます。
 単独で鴨を捕獲するためには作戦が大切です。逃げた鴨はどう進路をとるかなど、地形を知る必要があります。あとは、鴨たちは何をしているかですね、なるべく採食などをしているときが警戒心が薄れているので捕りやすいタイミングだと思います。捕食中の見張り役の位置が最も大切な要素ですから、その担当役に発見されぬよう射程内に身を隠しながら寄っていきます。匍匐前進ではなく、足を先に出しながらの匍匐前進というスタイルが多かったと思います。これにより最短時間で拒銃が可能ですから足が先という匍匐となるのです。また、場合によっては岬状になった場所を隠れて移動し、藪を少しづつ前進しながら近づくという事もよくありました。つまり、鴨の射程内圏内は30m前後でしかなくそれ以上遠くなるとまず捕獲は難しいのです。また、遠い距離で射止めたとしてもそれを回収することが不可能となってしまいます。鴨を射止め、さらにその鴨を手許に捕獲するまでの条件が満たされていないと難しいのです。
 いろんな条件をクリアし、ターゲットチャンスを迎え発砲。となりますが、射撃技術本位の猟人ではありませんから捕獲率は3割くらいと低いものとなります。
 今から思うに、的確な鴨の居場所へ近づく技術はまずまずでした。が、射撃場でクレー射撃をする余裕(投資)がありませんでしたから、回収率はおのずと低いものでした。
 正直言って、まだまだ書き足りないことなど山のようにありますが、くどくなるので割愛させていただきます。あすは登山要素の高いウサギ猟について書かせていただきます。



山の話㉔ 子供時代の思い出② 他

 昨日は特にやることもなく、どんよりと過ごしました。2週間前に中古のムービーを買ったので、その試運転も兼ねカミさんと旧大原スキー場の残雪部分へと移動。ほんのわずかな斜面でテレまくってみました。普段着でそのまま滑走したので、見栄えはあんまりよくありません。
 それにしてもこの世情、情勢はいったいいつまで続くのでしょうか?

 子供時代は大白川小学校まで家から4キロありましたから、毎日往復8キロ歩くしかありませんでした。なので、昨日書いた、いわゆる道草や道の近くの藪の木の実などをおやつ代わりに食べたのです。途中に山道のショートカットコースもあったし、木の実取りで藪漕ぎの原型もやりました。杉の花粉で遊んだり、残雪期には凍み渡りをし、大原開拓地の東尾根まで登って屋形平を初めて見た時の感動は忘れられません。まるで異国を見たような気分でした。
 冬になると今のテレマークスキーの原型の様な踵が上がる金具(当時は「パッタ」と呼ばれる機具でした)で初めてスキーをするわけですが、当然エッヂなど無く、滑走面にはクレヨンなどを塗って滑ったものです。それもスキー場などありませんでしたから、ただ踏んで階段登行で登り、まっすぐ滑るだけという単純なスキー遊びでした。止まる時にスキー板を横に押し出してブレーキをかけなければならず、それが所謂山まわりターンの原型だったのでしょう。つまり私はプルークボーゲンというものを最初から知りませんでした。
 夏になると破間川に行きハヤをたくさんとりました。産卵期なのでいくらでもいましたし、当時破間川ダムはまだなかったので、川は自然にあふれていました。プールなど無く川の淵で水泳の授業があり、淵にはたくさんの川魚が泳ぎ、肌を擦っていたものです。一方、夏休みの大原開拓地地区の子供たちは、自家発電所の上部の防火水槽を兼ねた大きなプール状の場所で泳ぎました。その水は大雲沢から流れ出る水であり、とても冷たく、すぐ唇が真っ青になったものです。震えが来るとプールから上がり、コンクリートの上で甲羅を干したりしました。
 男の子たちは、油味噌の入った弁当と鉈を持参し山小屋を作りました。炭焼き小屋のミニ版のような粗末なものでしたが、その中に入りいっときの居住空間の中で弁当を食べるだけという奇妙な遊びをしていました。すごいな、と思うのは、小学生の頃から鉈を使えていたという事だろうと思います。細かい焚き付け用の薪を適当な長さに切ることが私たち子どもの役目でしたので、柴木をサイ切りに鉈でせん断するのはさんざんやっていたことなのでした。
 守門川から大雲沢に至るまでの間、川の中には黒曜石が割とあって、それを拾いに良く川に行きました。そのまま奥へ奥へと入り込み、ついには大雲沢のゴルジュまでたどり着き、そのまま800mの水路トンネルをくぐって守門岳登山口に出たことがありました。当時は中学生が1人と私含め小学生が2人という無茶ぶりでした。 ほかに、橋の欄干わたりや、砂防ダムの放水天場から袖を登ったりとか、冷や冷やモノの大冒険の連続でしたが、今では考えられないことをやっていたと思います。
 とうことで、今回2日間は子供時代の山の話という事で書かせていただきました。明日からまた別な部分でいろいろと書かせていただきます。

山の話㉓ 子供時代の思い出① 他

 昨日は某建設会社の出向での3K仕事でした。午後からは汗もかき、肉体労働はきついですが汗をかくことは気持ちがいいものです。そろそろ、田んぼの準備にそれぞれが活動を始めているようです。

 小学生の頃は、大原開拓地から現在の山菜会館(今は営業していなく、後ろ側の工場が校舎痕であった)まで歩いて通いました。冬は寮に泊っていて5月頃から残雪の残る道を歩いて通っていたのです。今では杉花粉が問題になりますが、その当時は煙幕遊びというのがあって、杉の枝をゆすり花粉を撒き散らかすのが楽しかった記憶があります。
 雪も消えるとスカンポ(イタドリ)が芽吹き、その季節の一番のおやつでした。スカンポが終わるとヤマツツジの花を食べます。これはほんのりと薄甘く酸味があっておいしい方でした。あとはウラジロヨウラクの花を額でつぶしそのまま食べました。額でつぶすことに何か意味があったのだろうか?と今でも思いますが、釣鐘状の花弁が潰され、中の蜜を味わいやすい行為だったのかもしれませんね。あと変わったものとして、カタバミの葉も酸味があったのでよく食べました。タニウツギの花弁を外して蜜を吸ったりもしましたね、そう言えば。
 春を過ぎると初夏となり、一番の御馳走は桑の実でした。フキの葉に実をいっぱい入れ、口許に充ててぎゅっと絞り、まずクワイチゴの生ジュースをいただきます。残った実は口いっぱい頬張りました。なにしろ、おやつ類は自己調達に近い生活でしたから、イワナシの酸っぱい実なども御馳走でしたね。 
 イチゴは他にもクマイチゴなどが美味しい部類で、ナワシロイチゴなどもよく食べました。夏からは秋へと向かう頃、ヤマユリの花弁の蜜を舐め、雄蕊の少し干からびたものを食しました。これが意外に美味いものでした。変わったところでは、ススキの幼穂ですね。まだ穂が出ていない、少し膨らんだ部分を割いて中の柔らかい部分を生で食べるのです。ほんのりと甘く、なめらかな触感を味わうことができました。また、道端に這い出たヤマブドウの蔓などもそのまま生で食べました。
 秋はいよいよ実りの季節で、アケビや山ブドウなど、見つけると藪に突っ込んでいったものです。ヤマブドウよりも小粒で、あの当時「サナズラ」と呼ばれていたのは、たぶん今でいうサンカクヅルの事だろうと思います。この季節、クワイチゴと匹敵する美味さを持った果実はやはりサルナシでしょうね。
 変わったところではヤブデマリの実を「モチ」と言って食べていました。食べているとガム質のものが口になかに残り、それをモチと言っていたのかもしれません。さらに異常ともいえるものを食べていたのですが、ミズナラの葉にできたきれいな赤い虫嬰を食べていました。あれは実は甘いのです。昔はそのようなことは知らず食べていましたが、あの中にコバチの幼虫が一匹づつ入っているんですね。それごと食べていたのでしょうけれど、虫とミズナラの共生だったのでしょうか、甘さを与えてコバチの幼虫を育んでいたのでしょうか。
 少年期は他にもいろんな冒険や遊びをしてきました。それはまた次の投稿で書いていきます。

山の話㉒ 他

 昨日は、五味沢某所の冬囲い外し作業と、午後は久々にユニックを使って丸太を運んだりしてました。小型クレーンの先を見ながら操作していたのですが、太陽光線が異様にまぶしく、まるで初冬の小春日和のような気がしました。

 野鳥についてもう少し書きたいので昨日の続きとなります。後日、猟についての思い出や、記録もこちらに公開する予定ですが、野鳥にまつわる鴨猟やヤマドリ猟はその時にお話させていただくこととします。
 山旅の中で常々心を動かす野鳥の声があります。最近はめっきり訪れる機会が減りましたが、2000年から2013年ごろまで毎年一度は毛猛参りに行くことを自身の中で義務付けていました。これはむしろ山旅というよりも修業のような山旅でした。まるで重荷を背負って除草に向かう時のような、決して湧き立つような出発ではなかったのです。
 まだ暗い藪の中に分け入り、少し足元が明るくなってきたころ、深山の彼方からヒーー・・・という、細く鋭い鳴き声を聞きます。鵺の正体とも言われるトラツグミの声を聴くころ、一つ目の急登を登り切るのです。足を止め、その声を身に沁み込ませ、ふたたび上へと歩を進めます。やがて、周りは明るくなり、オオルリやクロツグミたちがあちこちで鳴きはじめます。トラツグミは深山の極早朝でないと聞くことは難しいかと思います。姿はまだ見たことがありません。むしろ逆に姿は必要ないと思っています。この幽玄な声だけで十分価値があるものですから。
 イヌワシは近くの某所が営巣地と言われていまして、大原スキー場にかつて勤務していた頃も上空を大きな姿で飛び回っているのを何度か見た事がありました。冬、彼らの餌は主にノウサギと言われていて、その数も減ってきていたので餌の確保には苦労したことでしょう。このイヌワシも傍で見ることはまず不可能と思われますが、一度だけ山伏岩のヒメコマツの梢にとまっているのを双眼鏡で眺めたことがありました。巨大な猛禽が羽を畳みたたずむさまは記憶に残るシーンでした。
 カラ類は割と混生し、一本の木をちょこまかと動き回ります。タクトの様な尾を振るエナガは可愛く鳴きます。エナガとヤマガラはだいたい同じようなところで見ることができた気がします。
 単独でウサギ狩りをしていた時、めずらしい鳥に会いました。今まで見たこともない色合いで、さっそく双眼鏡で覗いてみるとくちばしが交差している鳥でした。あとで調べてみるとイスカだったのでしょうか。あの時、一度きりの出会いでしたがとても重厚なひと時でした。
 オオルリほどサービス精神に長けた鳥はいないのではないでしょうか。あの三大美声の鳥として有名ですが、色合いもまた濃紺で美しい鳥です。良くなく鳥ですし、木の頂で鳴きますから発見も容易です。綺麗で鳴き声も良くて見やすくていいことずくめですが、少しレア感が薄れてしまいますね。
 オオルリと同じ森でよく耳にする声があります。少しコミカルな声のキビタキです。この鳥は、木の幹の途中にいるため、なかなか見ることは難しい鳥ですが、守門二口登山口から少し登ったところで至近距離で会うことができました。こういう偶然もありますから、山は登るだけではないのですね。
 春の登山道整備の際に、耳障りなくらいよく聞く声の主、クロジです。ちらっと見えた方と思うと、すぐさま逃げてしまいます。昨日も書きましたが、ホトトギスやカッコウ、ジュウイチ、ツツドリなどの類もよく聞きます。山菜が出始め、ブユがそこら中に飛び回り、吸血する頃、必ずそこにカッコウやツツドリの声が充満するのです。夏鳥はそういった、負のイメージもつれてきたりします。
 アカショウビンもなかなか見ることはできませんが、瞬間的に飛んでいる姿を数回見たことがありました。すべて山菜採りの沢筋でのことです。ただ、一度だけ某林道の途中で、アカショウビンの幼鳥を見たことがありました。あの子は無事に育ってくれたのでしょうか。
 都会の野鳥マニアの中でも人気が高いのが渓流を棲み処とするヤマセミです。極珍しい鳥で被写体として価値のある鳥らしいのですが、猟期にダム湖回りをしていたりすると、割と普通に逃げ回っているのを見ることが多かったですね。あと、初冬の頃の下流の電線にとまっているのを目撃したこともありました。逆に都会では珍しくないカワセミなどに会うと、きれいで感動しますね。 
 お前、ほんとに能天気で良いよなぁ~っていう鳴き声のコルリ。カラカラと明るくなく鳥で、かつて八十里越えツアーを6月に催していた頃
番屋乗越手前でよく聞く声でした。
 感動的だったのは、2003年ごろだったでしょうか。家の前が何やら騒がしく聞こえ、ふと見てみると何百羽いやそれ以上だったのかもしれませんが、アトリの大群落が羽を休めて集団で会話をしていたのを見たことがありました。それは壮観で、もっとも記憶に残るものだと思います。

 登山をする人にとっての山は花と景色と紅葉がメインかと思います。鳥の鳴き声に興味をしめす人にあまりお目にかかりません。実にもったいないです。森の風の音などのように一種のBGMとしての立ち位置かも知れませんね、それでもいいのかもしれません。草花のようにただただじっとして動かずに被写体となって生き続けることから解放された生き物なのですから。 

山の話㉑ 山の楽しみ方(とりあえず②)

 山道の傍に咲く、地味な緑色のヤマサギソウとかアリドウシラン。ミヤマウズラ、アケボノシュスランなんかに遭遇すると嬉しくなりますね。また、標高の高くない所のショウキランや、ナンバンギセルとか。あと、きれいなのにあまり脚光を浴びることのない、タニウツギの乱舞やシモツケソウの鮮やかな濃いピンク。これからの季節、毛猛山塊で美しく彩られるアズマシャクナゲなど。
 道端のカキドウシやムラサキサギゴケ、ニガナの群落など、雑草でありながら不遇な花々も多いですね。これらは山の御姫様よりもずっと私はきれいだと思います。スゲ類やイネ科の植物の花期もまた秋の風情を感じて好きですね。
 秋の守門岳除草で、山道の脇にたくさんのミヤマママコナが咲きます。しかし草の対象としてやむなく刈りますが、これによりかなり前より繁茂が激しくなっている気がします。一方、鬼が面山山塊のアカモノたちをかなり根元から刈ってしまって随分減らしてしまった部分がありました。その後、あまり根元から刈らないようにしたら、また増殖したようです。このように適度に刈り、刺激を与えると逆に増殖する植物もあるようですね。ゴゼンタチバナなどはかなり増えています。登山道整備をしなくなるとおそらくこういった山道の脇の花々はどんどん減ってくると思います。
 手を入れすぎると自然が損なわれますし、放置すると花などの美観は失われますし、登山道としての意味は消えます。なので、ヒメサユリなどの有名な植物はなるべく残置するように心がけてはいますが、なかなか小さかったりし、誤伐は少なくないです。
 花期はすでに終了し、種子が付いている状態の秋口は光合成も大分達成され、球根もしっかり保持されていると思うので、さほど単体数に影響はないものとして除草をやらせていただいています。


 家業を初めて5年後に森林インストラクターを取得したのですが、近くに草花や樹木、キノコなど、おおよその名前くらいは把握できるようになってきました。数年後の2002年くらいでしたでしょうか、春の登山道整備に向かう途中、嘉平与のボッチを過ぎ前岳に向かう木道で御夫婦の会話を聞きました。旦那さんが、奥様に「これは○○だよ」と野鳥の声を説明していました。声だけで主を確定できるなんてすごいなぁと。
 当時、まだバリバリの猟師でしたし、獲物を見つける時には双眼鏡は欠かせなく、山の軽整備にもよく持参し、野鳥などを眺めることもありました。しかし、声で主を確定できる技は持ち合わせていませんでした。以降、私は日本野鳥の会のカセットテープやCDを買い、家業で厨房に立ちながら聞いたものでした。以来、代表的なものはおよそ聞きなしで判定できるくらいになりました。
 野鳥は今、私の中では一番の楽しみでもあります。植物のように毎回会えるものでもなく、声はすれど実態をなかなか見ることができないという存在だからこそ、たまに遭遇した時の嬉しさは計り知れないものがあります。
 残念ながら今年は未だサシバくらいしか夏鳥は現れていないようですが、これからは妖艶な声で鳴くクロツグミの合唱を聞くことができます。なんというか艶やかですね、あの声は。しかし、なかなか見ることができない鳥でもあります。他に声はよく聞くけれど、なかなか見ることができない鳥としては、カッコウの仲間のカッコウ含め、ツツドリ、ジュウイチ、ホトトギスなど。特に夜で昼でもブラックな働きをするホトトギスですが、なかなか見ることができません。初の登山道整備のガスってる森で、警戒心の薄れた単体をたまに目にすることはありますが、普段は警戒心が強いのでしょうか、あまり見ることはありません。
 ということで、野鳥シリーズネタが結構あるので続きはまた明日やります。お楽しみに! 

山の話⑳ 山の楽しみ方(とりあえず①)

 昨日はいろいろと午前午後と用事が少しづつあり、勤務はお休みしました。午後は年一回の家業関係の会合があり、みな今の現況にあきらめと沈滞ムードという感じでしたが、そうも言っていられないという事で会合は終わりました。
 時間が少し早かったので、昨年秋に勤務仕事で杉の本数調整伐の作業を行った現場に行きました。現場の中はほとんど雪はありませんでしたが、作業道にはまだ30cmほど雪が残っていました。昨年、この作業の最終日での最後の一本が失敗してしまい、その原因を探るべく向かったのです。そして、伐根を検証。受け口の方向は問題なく、掛かり木になる要素はないようでした。しばらく何が原因なのだろうとちょっと考えたのですが、その原因は木が倒れようとする力の方向とは逆の方向に根が張っていたのでした。これにより木は、倒れながらも引っ張られている方向へと力が作用し、伐倒方向がずれてしまったということです。一見、豪快な仕事のように見える木の伐採ですが、緻密な読みが必要なのです。


 1994年に家業を開業し、しばらくは必死に来る仕事を拒まず営業をしていたのですが、自然のスペシャリストになりたいという気持ちがありました。キノコや山菜に関しては少し知識があったものの、他の植物や野鳥昆虫などの知識は全くなく、三十数年前まではシラネアオイすら知らなかったというのが現状です。
 開業した次年度1995年に森林インストラクターなる資格が有ると知り、1996年から受験を開始しました。「森林内の安全」「森林内のリクリエーション」「林業」「森林」の4科目があり、これをすべて合格すると2次試験があり、クリアするとこの資格が得られるというものです。それぞれ、単位制となっていて、ひとつの科目が3年間有効になっていました。結局最初の2年間はあまり勉強せず、4回目でようやく受かったのでした。
 今になって考えると、あまり価値がない資格だと思いますし、あくまでも民間機関の資格に過ぎません。受かった当初は、新潟県森林インストラクター会なるものに入会し、会が計画した自然観察会などに参加させていただいておりました。しかし、会場が主に下越地区という事もあって、なかなか足を運ぶのに大変であり、数年後に脱会しました。今は全国森林インストラクター会も脱会し、5年に一度だけ5000円を支払って資格だけの存続となっています。
 得にはなりませんが、あれは何ですか?これなぁに?と聞かれた時に、そこそこお答えできるというのが、結果良かったのかなと。
 こに資格を取得するにあたり、大きな図鑑をザックに入れ、足しげく守門や浅草に通った時期がありました。普通、植物を覚える場合は、花弁がいくつで葉がどんな形でなど、タイトなことを覚えていくのが常套手段かと思いますが、私は外観と雰囲気のみで覚えていきました。(余談ですが、その後、植物分類技能検定2級なるものに2度ほど挑戦した経緯がありましたが、これは専門知識を必要とされ玉砕しました( ;∀;))
 そういった勉強がてらの山行きを得て、森林・・・を取得し、各山に出向き諸植物を知りました。主だったものにはおよそ区別ができる様にはなりましたが、コケ類、シダ類、イネ科の植物は開花期や胞子育成時期にならないと判別できないなど、専門的過ぎて結局妥協したという感じです。
 植物観察で楽しみだったのは、鬼が面山山塊です。只見側が大昔の火山の火口だったという説があり、そのせいなのか1400mにもかかわらず、ハクサンイチゲ・ツガザクラ、他などが見られ、垂直に岸壁にはサクラソウ科のユキワリソウが見られます。その時期、このような植物の存在を知り、もっと何か珍しいものがないだろうかとよく通ったものでした。
 ある年に、まったくわからない謎の植物があり、これは固有種ではないか?と色めき立った時期がありました。何年か経過し、色んな詳しい方々に聞いたところ、どうやら分かったのが、この記録です。下から2番目3番目画像の植物
 いろいろ詳しい人に聞いたところ「チャボゼキショウ」とのことでした。

 私は変人なので、植物の花よりも樹木の花が好きですね。最近咲きだしたアブラチャンとか山ではサラサドウダンなど、その他。匂いでは匂いコブシと呼ばれるタムシバと、ダントツ1位はホウノキの花ですね。これは山を歩いていると遠くからでも香りが寄ってきますから、ついつい足を止めてしまいます。
 山を歩いているといろんなものに出会えますが、その瞬間瞬間がすごく得したような気分になるんですよね。それがやはり山のいいところなのだと思います。山歩きの楽しさですね。←(作成時が大分前のモノなので、若干時代遅れという部分もあろうかと思います)

山の話⑲ 八十里越え

 今ほど数えてみたら、八十里越えを通しで歩いたのは37回でした。その他にも全コースの1/2づつ軽整備やコースチェックなどを行っていますから、相当な数関わってきたという事になります。
 最初に歩き始めたのは、2003年頃でしたが、実際にはその1年前か2年前に雨の中下見に来たのですが、守門川添いにそのまま平行移動し迷ってしまい、撤退。そして2003年に平井氏と森山氏と共にようやく念願の八十里初踏破をすることができました。
 当時、八十里の道は荒れていなく、各所の崩落も少ないことからずいぶんコースタイムは短縮できました。また、大麻平への車乗り入れ手続きも容易であり、お気楽な八十里越だった気がします。
 2004年下越水害で、吉ヶ平手前の道路が全壊し車乗り入れができなくなりました。翌年様子を見に行った時は崩落地を何とか渡り高清水沢までピストンしました。各所が崩落し、特に椿尾根手前の地形は全く変わってしまっていました。そこを適当に鉈目を入れたのが私だと思います。また、椿尾根から先も大崩落が発生していて、相当な高巻きをする必要が生じたのがそれ以降となります。
 2005年あたりから再びお客様の山先をするようになり、吉ヶ平手前の網張林道分岐から歩いたり、遅場農道から入ったりしていました。その後、2007年に吉ヶ平手前に橋が架けられ、3年ぶりに車で入れるようになりました。
 2011年、新潟福島豪雨で八十里越えどころか浅草岳ネズモチ平までの間も決壊し、大変な年でした。秋の登山道除草は危険のためやらない方向で当該組合は暗に決めていましたが、私は自分の担当箇所だけは終わらせたいと思い遠い道のりを歩き、なんとか終わらせたのでした。 
 明けて2012年、まだ吉ヶ平までの間は車乗り入れができない状態でしたので、なんと遅場のゲートからひたすら歩いて吉ヶ平にう向かいました。この年はその後2回ほど山先を行い案内させていただきましたが、両日ともに遅場農道から吉ヶ平まではプラスの歩きとなりました。
 2013年には再び吉ヶ平まで車で入れるようになったのですが、山道は草に覆われ、状況は良いものではありませんでした。
 2014年は私の全治2か月のけがで八十里はパス。2015年も無しで2016年より再び実施しましたが、参加者の怪我などで田代平撤退となりました。
 2017年は秋に二桁数の山先をお願いされていまして、その前に一度整備を兼ねて下見を行いました。その時は、刈り払い機を稼働させながら八十里踏破をしました。
あとにも先にもこんな奇特な輩は私くらいなものだと思います。

 八十里越はこの先どうなるのか?ずっと登山道は持続していけるのだろうか、など不安はありますが自分の体力と折り合いをつけて、やれなくなる時が来るまでやるつもりです。

山の話⑱ 守門浅草②

 昨日は守門へ。土曜に浅草岳に山スキーに行ってきたという人から一報がありまして、スキーが滑って大変たのしかったという事でした。しかし、1日経過した後ですから、雪質も一気に変化してしまいますし、大原まで車で行けるようになったので行ってみることにしました。
詳しくはサイトにて画像と記事をご覧ください。


 守門岳には、今現在管理されている登山道は、①吉ヶ平~網張山~アバラシ ②入塩川~アバラシ~中津又岳~大岳 ③保久礼~大岳~二口分岐
④二分旧キャンプ場~保久礼小屋 ⑤二口~二口分岐~青雲岳~守門岳 ⑥大池~大池分岐 ⑦大白川~大池分岐~守門岳 ⑧大白川~布引道上部分岐と細かく分割されます。二分旧キャンプ場から保久礼小屋迄は時間にしてわずか30分程度ですし、大白川布引道も周回で40分ほどです。なので、実質六通りの登山道が管理されていると思います。なお、今まであった大穴沢線はすでに廃道化したという話も聞いていますし、こちらにも紹介させていただいた吉ヶ平沢ルートも数十年前に廃道になっています。
 浅草岳は、①ネズモチ平~浅草岳 ②ムジナ沢~桜曽根~前岳分岐 ③六十里~前岳分岐 ④田子倉~浅草岳 ⑤入叶津~浅草岳の5本で、以前は入叶津コースに沼の平らというコースもプラスされていましたが、今はガイド付きでないと入山禁止となっているようです。

 なんでしょう?こうもたくさん守門や浅草に行っていると、意外と書くことがない事に気づきました。あるんでしょうけれど、書く気になれないというか、言葉にできない部分とでも言いますか。とにかく、守門浅草はいい山です。しかし百名山ではない、標高がない。2つで一つ、ペアで、みたいな感じにとらわれがちですが、それぞれ独自の山容を持った山です、と主張したところで空回りしてしまうような、なんかそんな気分です。
 だいぶ体力にも自信がなくなってきましたし、この先どれだけ山の管理ができるか不安ですが、その時はその時で考えると致します。
という事で、山の話はだらだらと続けていく予定ですが、守門浅草コーナーはわずか2回で終了とさせていただきます。まぁ、またネタとしてはいくらでも出てきますけど。

山の話⑰   (守門岳・浅草岳について)①

 昨日はもしかして最後の最後の山スキーでも行けるかも?という淡い期待もありましたが、基本、行く気がなかったという事です。妻と所用(でもないのですが)下田方面へと向かう途中の菜の花畑がとてもきれいでした。午後からは相変わらずのグダグダでした。
今日はこれから大原まで車で行けるので、そこから市道を小一時間ほど歩き登山口から守門へと行ってみようかなと思っています。
おそらくカンジキの出番があるのではないかと考え持参するつもりです。

 守門浅草は本当によく行きました。アバウトですが合わせて400回ほどかな?と思います。以前は記録にあるものを数えたりしてましたが、今はもう数える気力がありません。そのほとんどが様子見登山や作業登山がメインだと思いますが、時としてふらりと出かけることもあります。
 数多く登っていると、およそのコースがわかってきて、次にあんな登りがあってその次は斜面が緩くなるなど、なんだかなぁ~と思うこともしばしばですが、月並みの表現で言えばその都度の発見があるといったところでしょうか。
 さて、曇り空の予報ですが良い傾向の曇り空になってまいりました。あわてず騒がず、のんびりと自分探しの旅でも行ってきますか。


山の話⑯

 昨日は建設業者さんが人手が足りないという事で、やむなく出向仕事でした。車中でしたので、暖かくて良かったのですが、居るだけ勤務というのはある種の拷問でしかなく嫌なものです。
 エコミュージアム辺りはまだまだ雪が2メートル以上あり、山と里の雪の差が著しいですね。雪も1日だらだらと降っていましたし、まだパウダー行けそう?みたいな感じでした。


 さて、藪の話が大分続き、またまたマニアックな登山道整備の話を御提供させていただきました。今回はどちらかというとマニアックと反するメジャー山域について書いてみます。メジャー山域というと、思い浮かぶのは日本百名山ですが、私自身そういう拘りがまったくない人ですので数えるくらいしか行っていません。
 苗場山には単独で1回、地元の年上のSさん秋山郷から妙高火打山もSさんと一度、記録にありませんがずいぶん昔に知り合いの方とともに天皇ルートで平が岳、地元Sさんと鷹ノ巣から平が岳、単独で尾瀬燧ケ岳、小千谷М氏と谷川環状縦走越後駒ケ岳は地元Sさんと三山掛け、小千谷М氏と前駒まで山スキー駒の湯から単独、枝折峠から単独ピストン?、荒沢岳~中の岳~越後駒ケ岳~銀山平単独地元平井氏と巻機山、山仲間と巻機山、地元Sさんと沢コースで巻機山地元平井氏と月山肘折から、単独で会津駒ケ岳地元Sさんと会津駒ケ岳小千谷М氏と飯豊ピストン、昔、山仲間たちと飯豊山塊、3名で大朝日岳、穂高環状縦走3名、といった感じで実に少ないです。
 どこもかしこもいい山で、良い景色もたくさん見れましたが、あまり印象が無いなというのが正直なところです。修業の様な越後三山掛けや単独での裏越後三山掛け・肘折から月山は大切な記憶の財産だとは思いますが、穂高などはどちらかというと観光地っぽい気がしました。 前回から長く書いてきました藪山シリーズからするとメジャーな山域はやはり王道ですね。
 この山旅で、一番強く心に残り続けるであろう裏越後三山掛けソロは、私の小さな搭載エンジンとチキンハートでいっぱいいっぱいの旅であり、生涯私と私の中のもう一人と、ずっと語り合える山旅だったと思います。

山の話⑮ 

 昨日は3日間フル稼働したチェーンソーのメンテナンスを終日やってましたが、刃の研磨に時間を費やし3台ほど残りました。刃の研磨も奥が深く、完璧な切れ味にするにはどうすればいいのか迷走してしまいます。まぁ、作業に支障なく普通に切れる状態にはできるんですが、美しい木挽き屑を出したいのです。

 登山道整備や山の下見は雪消えから始まり、植生保護ロープの設置、道標や補助ロープの点検、支障木の除去、道中の浮石処理や危険個所のステップの造作などが主な内容です。植生保護ロープは雪消えのタイミングがずれますので、守門浅草は2段階で行かないといけません。その他に、場合によってはヒメサユリの開花状況などをチェックしに向かう事もあります。
 それらのほかに、各所の管理棟やトイレ掃除、夏場には駐車場やその一帯の除草を行い、9月から登山道の本格的な除草作業が開始されます。一番大変なのがこの時期です。 
 登山除草は民宿組合で行っていますが、三軒で各所の登山コースを振り分け、それぞれが行うという形です。私の担当は、浅草岳ネズモチ道と六十里道、守門は大白川登山道と布引道、番外で田代林道と木の根峠から鞍掛峠間です。
 作業中は必要な荷を背負いながらの刈払機稼働ですからきついです。特に初日は気が重く、「うわぁ~はじまるのか。。」という迷宮入りの様なため息からのスタートです(笑)。しかし、初日を過ぎると他の事に目を奪われ、素晴らしい景色や絶妙なタイミングで何かに会えることもあります。
  2013は雪が多く、5月は中旬まで山スキーをしていました。大原スキー場も連休まで悠々と営業できました。ところが連休明けに地元業者さんが除雪を開始したところ、スキー場ゲレンデ内を横切る県道が大きく崩落し、その下部から登山道まで歩かなければならなくなりました。その年はいろいろと忙しく、なかなか様子を見に行くこともできず、勤務仕事が終わってから守門へと向かいました。日も長い時期なので、さほど困りませんでしたが、暗くなるのは瞬間的なのだな、という感覚になった日でした。
 2日後、今度は六十里登山道に夕刻より入りました。途中のヒメサユリの開花に励まされ、闇の中の下界には只見の灯りが点在し、厳かな山旅でした。
 あまりの景色に涙腺崩壊してしまったのが、晩秋の守門ロープ撤収超早朝便でした。この日もなかなかタイミングが合わず、早朝しか行く機会がなく嫌々行ったのですが、山頂での絶景に思わず涙腺が…(笑)。
 そこまでやるかい!という一人突っ込みを言いたくなるのが、八十里を刈り払い機持参で踏破したことですね。

 まだまだ、いろんな話を提供できますが、苦労自慢になりつつありますのでここらへんで。興味のある方は年度別の山行き記録をご覧になってください。そこでリアル体験できます。

山の話⑭ 他

 3日間、某所で大径木の伐採で事業所3名で出向いておりました。直径約1メートル近いものなどもあり、なにはともあれ疲れました。なによりもクレーンのバケットに吊られて切っていくのですが、足場がふらふらするので大変難しかったですね。また、根元部分はガイドバーの90cmチェーンソーを使いました。30kgほどあり、重いし綺麗に切れなかったりと少し不満が残るものとなりましたが、初の経験ですし、まぁ終わったのでほっとしています。
 その最中に昔の山仲間が泊まりに来てくれ、楽しく過ごしました。


 藪の話も佳境に入り、そろそろ別な所へと話を進めていきたいところです。
 田代平から1時間ほど歩くと鞍掛峠に着きます。その上部が鞍掛山という事になりますが、特に国土地理院の25000分の地図にはその山名は記載されていません。下田山塊の地図で明記されている山名です。
 日本国中の鞍掛山を歩いているというグループから連絡をいただき、そちらの鞍掛山に是非登りたいので案内をして欲しいというのです。ただ、宿は湯沢にとってあるという、なんか複雑な心境でしたがお請けしました。もちろん、私はプロではありませんからセルフレスキューでお願いしますという事です。
 2013年7月、シロとともに下見を兼ね行くこととしました。 藪はさほど濃くなく、まったく人が入り込んだ形跡はありません。山頂いと思われる場所も何の特徴もない感じでした。翌年、そのグループとともに再度鞍掛山へ。
 この記録をもとに考察されるのは、藪山は大変そうですが以外に早く登れるという気がします。ただ、これは木の生えているラインによるものが大きく、斜面の下から上へと登る場合、あるいは上から下る場合は実に歩きやすいものとなります。しかし、斜面を横切る場合など実に苦労させられます。また、尾根筋歩行も日当たりが良いため、陽性木本が繁茂しマント群落(蔓の類)の巣となっていてザックが引っ掛かりイライラさせられます。吉ヶ平を守る会の方々と天保古道の調査に参加した時もこんな感じの稜線歩きでした。
 ずっと行ってみたい山があったのですが、昨年晩秋にトライし、なんとか行けた山がありました。旧栃尾の万太郎山と、旧守門村の天ヶ倉山です。ともに低山で、時間は短時間で登れると見込んでいたので単独で行きました。ともに、三角点があり、25000地図に山名が明記されているのでマニアにとっては美味しい山です。万太郎山は起伏が平易でわかりにくく、地図読みの練習には良い山でした。天ヶ倉山はやはり農道などを利用し、如何に短時間で効率よく登れるかというタクティクスが読み通りできました。昔は此処にお城があったらしいという説もあり、なかなか低山でありながら深い山です。 
 やはり昨年晩秋、小千谷М氏とともに番屋山に行き、その帰りにもう1個山をこなそうという事になり、吉ヶ平山荘近くの猿が城に向かいました。この山も山道は皆無で、尾根筋がいくつもあり、それが微妙に分枝し、登りは割とスムーズに行けましたが、下りで失敗しました。これも良いトレになったと思います。
 同じ時期、М氏と六日町の六万騎山から猿倉山まで縦走したのですが、後半の激藪の尾根筋アタックは2.5時間の大変なものでした。二人とも衣服はサルトリイバラのような植物の棘でずたずたになり、翻弄させられました。
 この少し前、前に訪れた松川林道最終地の高鼻山山行も興味深い山行でした。相当前は管理されていたであろう登山道だったと思いますが、徐々に寂れ、歩く人もいなくなり原始に還りつつありました。
 さしたる藪もありませんでしたが、印象に残る山として2006年5月に平井氏と行った五剣谷山です。さして時間はかかりませんでしたが、とにかく遠い山でした。途中でスライドした長岡山岳会?の73歳グループの逞しさに驚いた楽しい山旅でした。

 ここのところ、ずっと藪山に関することを書いてきましたが、明日からはまた通常運転で書いていきます。次の内容は作業山行という主旨でしばらく綴っていきます。

山の話⑬

 残雪期の藪山行で気になる山旅があったので、引き続き書いていきます。
 だいぶ前に、地元の平井氏と無雪期の明神山に行ったことがありました。最終的には私の単独行になりましたが。その時に明神山から眺める大倉山の存在が気になっていて、何時かは至って見たいという欲求がありました。
 2011年4月雪は多く、単独で大倉山を狙いに入りました。結果的に単独が故の安全策を優先し、途中の分岐で方角を唐松山方向へと変更し、猫岩経由で適当な尾根を地図で調べ下山しました。
 2010年もそこそこの雪が多く、藪山ネットの栃尾青木氏兄弟と旧守門松川山塊の縦走を歩きました。残雪も程よく残り、楽しい歩きでした。
後半の松川林道の歩きはデブリが多く全層雪崩があちこちで起こっていて、最大の難所だった気がします。

 記憶に残る藪山行は他にもありますが、本日は多忙ゆえ、これにて失礼いたします。
 こんな時期ですからグループ山行を断念される方も多いかと思います。結果、好きな山にも行けないかたも多々居られるでしょう。家中で悶々とされている方の気晴らしや暇つぶしにお読みいただければ幸いです。ちょっとマニアック過ぎますが。

山の話⑫

 昨日はだらだらと小雪がずっと降り続け、現場では震えが終始止まりませんでした。季節外れの雪は困りものです。さっさと暖かくなって欲しいですし、厭な時勢も何処かへ行ってほしいものです。


 今日もまた藪山のお話をしますが、今日のネタは有雪期です。以前にも毛猛山塊の話はさせていただきましたが、いわゆるマニアック登山であっても毛猛はマニアックの中でもメジャーな山域となります。これは、かつてどこかの登山雑誌がマイナー12名山と銘打って話題を提供した中の一つの山という事になります。 
 ほぼ記録にないルートで行った山と言えば、大白川~田代平~丸倉山(1192?p)~五平小屋付近~中の又山、単独では大白川から田代平を経由、丸倉山を経て、五平小屋付近まで。あと、印象に残る山旅は、地元の平井さんと行った、大雲沢ヒュッテ裏~下黒姫沢右岸尾根~駒の神~袴腰~守門岳~大原スキー場自宅の周回ルート。これらが印象に残っています。

 本日は少し早出の付き、時間がありませんので、この辺で。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 

山の話⑪

 昨日は雑用に終始しました。午後からは勤務に出勤し特大チェーンソーの刃を研いだり公園の巡視作業他で過ごしました。日は時々差すものの終日雪がぱらつき寒い日でした。午前中小出まで出かけてきましたが、スーパーは人でごった返し、今の時期だからこそ人々は買い物に勤しんでいるのであろうかと思った次第です。
 今日、朝、ふたたび重い雪が降っています。


 かつて明確な登山道があったが、すでに現在廃道化された登山道を辿ってみたい。こういう藪好きも多々いることと思います。それはどこかに郷愁というか、自分の中の琴線を探すかのような作業にも思え、そこを辿る時の緊張感は有るがままの登山道の何倍も心が高鳴るというものでしょう。
 守門岳吉ヶ平登山道はまさにそういう道でした。
 吉ヶ平という名を聞くと、なぜか懐かしさを覚えるのはなぜだろう?と自分の中の淵を探ってみると、その昔、県内のどなたか(確か見附の方だったか‥‥と)が書いた守門岳に関する本だった気がします。その本の中には現在の番屋山途中の雨生ヶ池の雨生をアバラセだと書かれていたり、吉ヶ平山荘の管理人さんが柳さんという方であったり、そういう古い時代の事が書かれていた本でした。その本はすでに紛失してしまいましたが、その記事を辿り、私は吉ヶ平山荘に出向き、柳さんという方を拝顔しに行った事が思い出されます。
 その本の中には旧吉ヶ平ルートが詳しく表されていて、そこを辿る必要性があると強く感じた次第です。
 私は1994年晩秋に当宿を立ち上げ、しばらく蕎麦店と宿を切り盛りしておりましたが、両立は厳しいものがあり宿のみとしました。空いた時間を山小屋主としていろんな山を歩き、それぞれ把握しておかなければならないという事で、近くの山々(主だった新潟県内の山歩き)を勢力に歩き、特に近隣の山に関してのコース把握は確実にやって置くべきだと思っていた頃です。
 浅草岳は、ネズモチ道・ムジナ沢から桜曽根道・田子倉中崎尾根・入叶津道・六十里道などを終え、守門も大白川登山道・田小屋登山道・本峰から大岳保久礼登山道・二口登山道・入塩川・大穴沢中津又線など歩き済みでした。当時、吉ヶ平の新ルート建設は未だ行われておらず、そこは建設後一度登ったことがあります。
 廃道巡りをしたいという欲求はいつの間にか脳内から消えてしまっていましたが、2006年の無雪期黒姫歩きの道中にヒメサユリがあったことが忘れられず、守門岳本峰付近にもそれがあるのではないだろうか?あるものなら巡り合いたい、その欲求が強い時期でもありました。
 2008年7月、この時期は多忙期のはざかいであり、仲間と帝釈山お気楽登山のあと暇な日があり、シロとともに守門に出かけたのです。この日の目的は守門山頂の東、袴腰から下ったカール地形が目的でした。その草付きに何かがあるに違いないという想像は膨らみ、そこが目的で守門に行ったのですが、糞暑くとてもそんな気になれず却下。代わりに青雲岳の近辺を散策しましたが、これも何一つ目ぼしい植物に会うことはできませんでした。ふらふらと大岳に向かうと鞍部網張で赤テープを見つけ雪渓のある所まで下降しました。その時に、ヒメサユリ発見作業から一転、吉ヶ平ルート完結山行に鞍替えとなってしまったのでした。
 10日後、今度は吉ヶ平から入ってみました。当時はそれでも山菜採り用の山道として使われていた痕跡があり、管理はされてはいないが道型はしっかりしていた記憶があります。ただ、地形の変わり端の入りが解らず、目印が何点かあったりしたのでもぐりこめましたが、現在はおそらくわからないかも知れませんね。
 かつての道標がまだ残るそのコースは、今ではもう歩く人も居ないだろうと思います。下田山塊の地元地図に硫黄沢付近に♨マークがあったのも来訪したい欲求の一つだったのかもしれません。確かのその区域は硫黄の匂いのする沢ではありましたが、においだけのようでした。


山の話⑩ その他

 昨日は20日ぶりの浅草岳テレマークスキー山行ソロでした。本来は先週あたりが狙い目でしたが、体調面がパッとせず、回避。昨日も、今ひとつモチベーションは上がらずでしたが、これを逃すとあとは奥丸でなんちゃって山スキーくらいしかできないと思い、尻を叩いて出発。ホテル跡に行くと5~6台ほど登山客が居ました。ここから先は除雪のためバリケードがあり、車は入ることができません。 
 さすがに山スキーヤーはあまりいませんでしたが、それでも10人ほどいたでしょうか逆に歩きの人もそこそこいました。
 林道は途中で1か所土が露出し、スキーを外しました。林道終点のシラベンノノ沢はかろうじてブリッジを渡渉でき、林業作業山道の一部が露出、そこでも2回目の脱着となりました。この時点でスキー先行は私で、だいぶ前のシール痕を頼りになんとかヤジマナ尾根下部の鞍部下に出ました。ヤジマナ尾根はまだ雪があり普通に行けましたが、これはおそらく雪の量が少ないために雪堤が崖に落ちることなくうまい具合に尾根に付着しているという状況なのでしょう。その年々によって、尾根筋の雪やトラバースの状況など変わってくるのでこれもまた興味のあるところですし、やはり山は行ってみないと分からないですね。
 ヤジマナ尾根から先も雪は着いているものの、相変わらず藪は五月蠅くなかなかダイレクトに進めません。それでも雪はしつこく着いているから不思議な年です。嘉平与のボッチも何とかトラバースもできました。20日前の時よりもこの間の降雪で上の雪は多いのかもしれません。新たに吹き越しや雪庇が形成されていました。
 1300あたりからひたひたと山スキーヤーが2人後を追いかけてきて、途中で抜かれました。無雪期の桜曽根登山道との合流あたりで止まり、シール剥がしをしているので、どこを滑るのか聞くと、このままムジナ沢滑走して登り返し、ヤスノ沢へ再び滑るという事でした。世間のBCプレイヤーはどこどこの山のどのルートを滑走するといった攻略法に湧いているようです。それもまた山スキーの醍醐味でもあるし楽しさでもあるのでしょう。
 山頂には先行の歩きの方が2人いました。小腹が空いたので、自宅で茶色く詰め込んだ弁当なので食欲は今一つ。弁当を半分ほど食べていると、ヤジマナ尾根手前で少しお話したカップルさんが到着しました。現在BC修業中だが浅草岳は自信がないので下見に歩きで来たという方々でした。
 山頂直下はフイルム雪で滑走性は抜群で、思わず声がもれました。数ターンのみでしたが気持ちよかったですね。それからしばらく前岳は登り勾配となりますので、せっせと階段登行で登ります。前岳から嘉平与手前までの斜面は例年だとしっかりしたそこそこの広さの斜面となり、かつてはそこで浅草岳スキーツアー時に撮影会が催され、希望者は各自がネットで自分の画像を見れたというシステムがありました。ですが、今年に関しては尾根自体が狭く、ムジナ沢源頭の急な斜面を少し滑ってから右にトラバースという形をとらざるを得ません。 
 雪は程よく柔らかく、しかししっかりしていて滑走性も良い感じでした。嘉平与のボッチは岩の下の小さなスペースを何とかクリアしトラバース。そこから下もまずまずの雪で長い尾根まで滑走しました。
 技術的な部分として、やはりこの間から試している、切り替え部分でやや小さめのポジションを取り、ターン前半に脚の伸ばしのタイミングで雪を圧していくという手法で滑走しました。やはりこれは山スキーには効率的のような気がします。さて、アイヨシ沢源頭から藪は細かくなるとともに、雪は重く曲がりにくい感じとなりました。そこで、シュテムテレマークという外足をシュテムし迎え角を作り、その後うしろ足を同調させるという技をやってみましたところ、外足に動きに釣られて後ろ足もそこそこ動いていくのを知りました。当然、こういった技術は以前にも行っていたのですが、特に実践でやるという事を務めてしていませんでした。山スキーは、まず安全に確実に滑走するという部分で、こういう滑りもやっていかないという気がします。なんというか、たくさんの引き出しですね、そういうものをもっと溜めていかないとと思います。 
 ヤジマナ尾根からの狭い急な尾根は意外と滑りやすかったですね。たぶんこれは今までのスキーヤーが新雪の都度削られて、下面の雪が出たまんまの状態だったのだろうと思います。超悪雪はその下でした。重い雪が軽くクラストし半分解け出したような雪で、ズレにくい雪でした。なので無理せず、少しづつターンしては止まりを繰り返し、林道にようやく出ました。
 滑走は前半楽しく良い練習にもなり、後半の難しい雪もいろいろとヒントを得ることができました。ほとんど休憩なしで滑走したので後々疲れが残りましたが、充実したBCでした。



 長~い前置きとなりましたが、昨日の藪つながりのお話を書いていきます。
 2007年、旧営林署職員から官民界の杭の調査を行うので手伝ってほしい旨連絡を受け、手伝ったことがありました。盆明けから単発で継続され、10月の末頃まで行われました。
 登山道の途中で、大きな大木の根元に2本の赤いラインが引かれたものを目撃した方は居られるでしょう。また、道ではないにしろ道っぽい感じがあり、かなり鉈目が入った部分があったり、小さな赤いプレートやコンクリート杭があったりと。そういう個所は官民界(国有林と民有林の境)の「道」なのです。通常、登山道は登山者に優しい設定となって設計されており、トラバースはしっかりした道型がとられ、尾根筋を通り、景色を垣間見れるような設定となっていると思います。しかし、官民界は地形を真上からざっくり気ままに切り取ったような図面となっていて、時に尾根筋のわかり易い部分もありますが、場合によっては尾根から一気にズドンと急峻な沢まで落下し、それから再び崖のような斜面を登り別な尾根筋へという図面となっているため、調査には大変労力が強いられるのです。
 現在でも一般登山道を外れ、こういった官民界の調査道に紛れ込んでしまったり、送電線巡視路や作業道、林業の山道、三角点測量で刻まれた鉈目や目印リボン、今後造成される建造物や土木構造物の目印やその測量道、山域のゼンマイ道やキノコ道、釣り師たちの踏み跡、果てまた獣道などなど、たくさんの迷う要素はあります。私自身もお客様のソロさんが官民界道を進み迷ってしまったとの連絡を受け迎えに行ったこともありました。逆に藪漕ぎでは、こういう道を利用するという手もあるわけですし、それぞれの山道の特性などを知って置く事も大切かと思います。
 2007年8月9月 10月1回目10月2回目とトータル6日お手伝いしました。今、この記録を読み返しましたが、あまり記憶にないのです。ほとんど図面は管理の方が持参してまして、私はそれに従い杭を探すというだけの役目でしたので、地形についてはよく分かっていませんでした。ただ、そのコンクリ―杭は官民界図の角度が変わる地点に埋め込まれているため、その杭を発見した後は必ず方角が変わるという事でした。
 ということで、今日は官民界の道について書かせていただきました。
 まだまだネタがあるので続けさせていただきます。






山の話⑨ その他

 昨日は浅草岳公園の開園準備で、安全ロープの設置や看板立て、遊具の点検、若干の剪定作業などを一人作業でやっていました。天気も良く、これで4月上旬なのか?と思わせる雪の量ですが、遠くの山々はまだ白くそこそこの雪があるようです。
 そういえば、ウグイスの初鳴きを昨日聞きました。だいたい4月の中旬頃から聞くこともありますが、上旬に鳴くことはなかったと記憶しています。


 ここのところ、藪山の話が続いてますが、今日も続きです。
 完全なる藪漕ぎで目的地を目指すのもまた楽しいものですが、昔有った山道を辿ったり、あるいはその痕跡を求めたりしながら進むのもまた風情があります。
 八十里越えを歩き始めた頃、気になっていたことがありました。それは木の根峠に小さな「古道入り口」という角柱があり、只見町の入叶津沼の平登山道の一角にもこのような角柱が見られました。この古道をぜひ行ってみたい、と思い、その下調べを兼ねての山行を幾度となく単独で行ったことがありました。
 初めて唾をつけたのが、2004年9月ごろ入叶津から歩き偵察をしました。車道歩きの途中の大きな石柱から入ってみたり、木の根峠の「古道入り口」から尾根筋に歩いてみたりと、まだまだ何も知らない頃でした。
 同じ年度の10月に再び入叶津から入り、沼の平を経由し古道に入り口から攻めてみました。その当時は、八十里道は標高を稼ぐ際、九十九折形状になっているという知識がなく、山道であればどこにでも踏み行っていました。私がその日歩いた道はおそらく地元の人たちが用いた山菜やキノコの道だったのではないかと思います。
 その後、数年は正規ルートの八十里越えを歩くことになりますが、2007年の晩秋に某諸氏とともに木の根峠から県境尾根の1004三角点を目指す山行を計画しました。この時点では古道のラインはまだわかっていなく、尾根筋の三角点が古道なのだろうという認識でした。ところが帰路の途中、古道と中道を発見し、およその位置が理解できたのです。尾根の上部の鉈目はおそらく三角点の調査のためのモノであったであろうと今思います。なお、当時の記述と今の見解には隔たりがあるのもご理解ください。
 翌2008年秋、地元の屈強山師h氏を誘い、まずは木の根峠から大三本沢まで至ることができました。これはh氏の山師の勘に大いに助けられた感がします。同年、11月は逆ルートの入叶津から入山、一応2日掛け古道の調査登山を終了しました。このルートは、沼の平から大三本沢までの間が崩落などでわかりにくく、難しいものでした。何年か前に知り合い一行が調査したという噂もありますが、まったく情報は無いのが現状です。
 藪コーナー、まだまだ続きます。


山の話⑧ 他

 一昨日から毎年来ていただいている方々が2泊中ですが、昨日は悪天で奥丸のスキーは回避とのことで1日待機だったようです。私は珍しく事務処理などを手伝い、事業所のPCに初めて触りました(笑)。今年、現場で必要な備品などの調達をネットで調べておりました。林業をしていて、あれが欲しいこれが欲しいという瞬間は多々ありますが、すぐさま即決でっていうのはありません。一応稟議書っていうところでしょうか。

 本日も藪つながりで書いていきたいと思います。
毛猛山山塊は、基本的に有雪及び残雪期に登る山として定着していますが、無雪期にはどうか?と思い、入り浸った時期がありました。国道252号線の六十里トンネル手前の大鳥沢から前毛猛山、六十里登山口途中の雨量計のところから前毛猛山など、同じ時期に至りました。
 大鳥沢から入渓し、昔のゼンマイ道のなごり道を辿り、滝をトラバースすると急な草付きが現れます。その草付きを適当に樹林帯の林縁に沿い登ります。そこから再び大鳥沢の源頭部に出て、源頭の藪の少ないヒドを登ってみました。どんどん登ると、クロバナヒキオコシは失せ、カンスゲなどが繁茂したところに出ました。そこから大きな奇岩の横を通り、主尾根に取り付きしばらく藪を漕ぐと山頂となりました。
 六十里浅草岳登山道から入るルートは、雨量計(登山道からは見えません)の分岐を右折し、雨量計のところから入っていくのですが、最初来た時には雨量計まで明瞭な目印があったので楽勝かと浮きたちましたが、そこから先がかなりの藪でした。かなり藪というよりも、踏み跡が皆無でした。わかりにくい広い尾根をしばらく行くと、尾根は狭まりルートは明瞭になっていきます。途中途中に踏み跡らしき痕跡が見え始め、以前は確かに道があったのだろうと考えられる痕跡です。藤島玄の越後三山集成図(現在は廃版)では、古い鉱山がその途中に有ったとされ、昔は往来があったのだろうと思います。
 どこか面白い山はないですか?と、とある登山団体さんのリーダーさんから打診を受け、あれこれ提示してみたものの、なかなか見つからず、浮かび上がってきたのが足沢山と前毛猛山の山旅でした。一応10名様以上という事でしたので、下見をする必要があり、前毛猛山はこちらのコースを選択したのでした。
 足沢山へは従来熊狩りなどで使っていたルートを最初考えていたのですが、途中痩せ尾根があり、蜂が大量に居たこともあり、送電線巡視路から入るコースに変更しました。主尾根の分岐までは快適な道でしたが、その後は密藪(残雪期はほぼ雪で無雪期は踏み跡が皆無)で分かりにくくコース取りが大変でした。今なら絶対に請け負わない仕事ですが、その当時はなりふり構わずといった時期でしたのでなんでもやってましたね。
 藪漕ぎをしているといろんな植生変化があり、それを把握すると割と藪の場所を避けて通れたりします。そういう観点から、ただ山に登るのももちろん楽しみでもありますが、自然環境などに目を向けるといろんな発見があるものです。
藪の話は次回も続きます。

山の話⑦ その他

 昨日は勤務の関係でAEDの講習会があり参加してきました。相当前に日赤の救急法を受講した時代は、人形を相手に実際に呼気を入れたり大汗ものでしたが今の時代は体力はほとんど要らないようになったのですね。また、ほぼ機械がメッセージを出すので、それに従い操作あるいは行動するという手順なので誰にでも容易に操作できるようです。


 昨日は藪ネタでしたが、今日も続きです。
 最近は登られているかどうかわかりませんが、過去に山行きを一緒に行ったりした方が居まして、その方は三角点登頂を常に意識される方でした。国土地理院地図の山名がある山であれば、登山道のあるなしに関わらず登るという考えです。つまり、それは藪山を指し藪が鬱陶しければ残雪期にそのピークを踏むというものでした。しかし、残念ながら残雪期に登ってしまうと三角点そのものと対面ができない場合があります。私的にはそれだと登ったことにはならない気がします。過去にその方と2人だけで至った山として、2003年3月22日津久の又山が思い出されます。

 三角点の種類はあまりよく知りませんが、原始に還った藪の中から突然人工物に巡り合えるととても感動します。その最初が、前日書いた黒姫山行でした。 
 2009年秋ごろ、当宿を利用していただいた某測量会社さんのお手伝いで、いろんな山の三角点を調査する仕事をご一緒させていただきました。当時、劒岳・点の記という映画が上映され、まさに彼らが手元に持っていた資料が「点の記」と記されたものでした。
 調査の前に、私と地元のh氏が下見をしたりし、割といろんな三角点を踏みました。近くでは、大原スキー場西尾根と守門岳冬季ルートの一角でした。
 実際の踏査では、松川林道奥の土崩山近辺の記録が残っていましたのでさわりを記載します。

 この事業のあと、私は単独でシロとともに黒又の無名峰に行ったことも印象的でした。また、藪山ネットの栃尾aさんと松川の藪連山を歩いたこともありました。
 個人的に今日はあまり時間がとれませんので、本日ネタはこれにて失礼します。まだまだ藪ネタは続きます(笑)

山の話⑥ 藪

 昨日は天気も良く、勤務仕事の関係でジャクズリ沢上部の900m付近まで出向いてきました。もう少し行けば三角点まで到達できたのですが、目的が違うので折り返した次第です。それにしても雪が少ないので灌木が目立ちました。ジャクズリ沢源頭鞍部ももっと膨大な雪があるのですが、雪が少ないとあちらこちらが急峻な感じになりますね。


 昨日と一昨日は毛猛山塊の事を書かせていただきました。藪つながりという事で藪山に関して少し書かせていただきます。
藪歩きというのは普通に子供のころからやってました。とは言っても藪山登山をやっていたわけではなく、藪の中のアケビや山ブドウなどを取りに藪に分け入っていたという事です。また、キノコや山菜に目覚めたころにやはり藪漕ぎをせざるを得なく、特に土に出るキノコに関しては密藪を漕ぐ必要がありました。また、春の残雪期の熊狩りの時にも雪と雪の間に藪があったりし、銃を背負いながら密藪を漕いだこともあります。
 登山としての藪山は毛猛山山塊がとっかかりとなりました。毛猛山塊の部分で最も嫌な個所は、太朗助山直下の部分と毛猛山直下ですね。あとは雪の着き具合によって歩き安くなる事もあります。
 では無雪期はどうかというと、これは世間一般的には積極的に藪山に向かって行く人はいないのが現状かと思います。藪山というと、一般的に行われるのが残雪期の登山が多いかと思います。雪を拾い、藪を回避し、三角点を踏むというスタイルが多いのです。雪があればどこを「道」にしようが自由です。その山頂の踏み方に疑問を感じていたのは事実なのですが、それとは別に、無雪期のその山に何か特別なものがあるのではないか?という切実な興味に駆られた山域がありました。それが2006年7月下旬の黒姫山行です。
 ヒメサユリは浅草岳一帯にある植物ですが、守門岳では大岳から西方面がメインでその生息域に興味を持っていました。また、田代平から鞍掛峠の向かう途中にもヒメサユリの生息地があります。では、その中間点でもある黒姫はどうか?という興味が湧いていました。
 2006年は非常に多忙な年でなかなか自由な時間が取れない年でもありましたが、その山行に賛同した小千谷М氏、地元現BCガイドО君を誘うと一発返事で同行が決定し現地に向かいました。まずどこから入るかという事で現地に向かいながら地形をチェックしました。当時は車で田代平まで行くことができたので、地形図を見ながらルートどりをした結果、田代平から鞍掛峠まで歩き、そこから破間川に入渓し渡渉。わずかに残る支沢の雪渓を利用し、主尾根に取り付くという計画にしました。結局途中の開けた個所にヒメサユリを見ることができました。
 主尾根から方角をチェックし山頂方向に至るわけですが、まさに強烈な藪で山頂の三角点付近は視界無しの藪の世界でした。帰りのルートも間違いの無い様下り破間川まではすんなり至れましたが、そこから鞍掛峠間は地形に特徴がなく、結局、鞍掛峠と烏帽子間の稜線に出てしまいました。この時も、夏ではあったもの、ある程度の長さの雪渓に助けられたという事でしょうね。