山の話⑬

 残雪期の藪山行で気になる山旅があったので、引き続き書いていきます。
 だいぶ前に、地元の平井氏と無雪期の明神山に行ったことがありました。最終的には私の単独行になりましたが。その時に明神山から眺める大倉山の存在が気になっていて、何時かは至って見たいという欲求がありました。
 2011年4月雪は多く、単独で大倉山を狙いに入りました。結果的に単独が故の安全策を優先し、途中の分岐で方角を唐松山方向へと変更し、猫岩経由で適当な尾根を地図で調べ下山しました。
 2010年もそこそこの雪が多く、藪山ネットの栃尾青木氏兄弟と旧守門松川山塊の縦走を歩きました。残雪も程よく残り、楽しい歩きでした。
後半の松川林道の歩きはデブリが多く全層雪崩があちこちで起こっていて、最大の難所だった気がします。

 記憶に残る藪山行は他にもありますが、本日は多忙ゆえ、これにて失礼いたします。
 こんな時期ですからグループ山行を断念される方も多いかと思います。結果、好きな山にも行けないかたも多々居られるでしょう。家中で悶々とされている方の気晴らしや暇つぶしにお読みいただければ幸いです。ちょっとマニアック過ぎますが。

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この記事へのコメント

鰤鯛鱒鮎
2020年04月08日 06:25
 猫岩から唐松、大倉山の界隈は小出盆地からも良く見えますね。こんなに街場に近いのに、全体として花崗岩がベースにある地質からか、標高の割に山が険しいのが特徴。江戸時代には蒲原平野への薪炭の供給地であり、また明治以降は鉱山開発、また昭和に入ってからは黒又第二ダム建設時の物資供給ルート(サブルート)となるなど、時代時代の足跡が残る場所ですね。
 山が険しい割に高速道路のインターから近いため、関東方面からの俄か山菜採りが遭難したり、サスペンスドラマのような車両横転(偽装?)死亡事故が起こったり、電線金属泥棒の悲惨な末路(墜落して死んだ仲間を埋める)が露見したり、今でもいろいろあります。
2020年04月08日 06:42
おはようございます。

意外にと言ってはなんですが、そういう歴史があるのですね。
歴史を辿る山旅、昔の痕跡など、それを見たからと言ってどうにもなるものではないにしろ人というのは、やはり歴史をさかのぼることが好きなようです。

三又とかあっちの方は、やはりいろんな人が入る山域でしょうね。車の便が良いのに深山であるという事もあるのでしょう。
このご時世ですから、町の喧騒を避け、山菜採りなどに入る人も少なくはないでしょうね。最低限のマナーは守って欲しいものです。
鰤鯛鱒鮎
2020年04月08日 12:39
 この前ちょっと言及されていた「越後三山・只見集成図(H10.6 旧湯之谷村発行・藤島玄 編)ですが、手元にあったので久しぶりに広げてみました。地名の誤記や錯誤は若干あるかもしれませんが、ここまで詳細に地名と歩道跡を拾った資料はなかなか無いように思いますね。個人的にはゼンマイ山とその周辺の杣道に感慨深いものがあります。浪漫というと美化しすぎですが、うちらの御先祖様はこんな深山に分け入って山仕事をしていたんだな・・と。深山の祠も山仕事の安全祈願への気持ちの表れですね。
 そんな背景もあって、個人的には他所からの山菜採りにはどうしても厳しい態度になってしまいます。「ちょっとだけならいいだろう」「禁止看板が見えなかった」「他にも採って(盗って)いる人がいる」「何で俺だけダメなんだ」とか、いろいろ言ってくるんですがね。
 でも山の神様はちゃんと見ていて、何回も注意警告したのに山菜盗りを止めなかった余所者(長岡市)がいたんですが、その人可哀想に別の沢で転落事故を起こし、レスキュー隊のお世話になったようです。御先祖様の教えと神仏は大切にしたいものです。
2020年04月09日 04:43
おはようございます。
毎度の書き込みありがとうございます。
藤島氏の新潟の山旅上下を持っていたんですが、それもかなり興味深い読み物でした。越後三山・・・・も、地図としてではなく、読み物としての意味合いが強いものでしたし、ロマンを感じさせる地図でしたね。

いわゆる駄々な山菜採りさんは昔に較べるとずいぶん減ったと思います。が、まだまだいますね、そういう方々は。
2020年04月09日 04:43
きもちだま、ありがとうございます。
鰤鯛鱒鮎
2020年04月09日 05:58
 藤島玄の編集による「越後三山・只見集成図」について、百字ガ岳と檜岳との鞍部1288mに「ヒョウタン池」なる地名と水面の記載があるのに気が付きました。羽根川と一山越えた黒又川流域では、稜線の歩道跡に時々小さな池が記載されています。従来は「土砂崩れや雪崩の雪蝕等で地表面が撹乱され、自然発生した池」との解釈でしたが、もしかしたら、人為的に造営された「水源」の可能性もありますね。実際、上権現堂山から猫岩を経て唐松山に至る稜線の歩道脇に、小さな池(水たまり)がありますが、今までは鉱山開発の際の割戸(掘削跡)かなとも思っていましたが、檜岳の「ヒョウタン池」の記載を見るに、こうした池の中には「山中で山仕事をする際の生活用水や炭焼きの防火用水に使う目的で、雪田地形を活かして造営したものもあるかも」・・と思案しています。越後の農民はとにかく粘り強くて、中小河川を移動させたり(瀬がえ)、水源にする横穴や隣村まで抜ける隧道(トンネル)を掘ったりしたくらいですから、稜線付近に小さな池を造営するくらいは簡単に実行したのかも知れません。
 またそのイメージの大元は山岳信仰で巡った苗場山や巻機山の池塘(神池)にあるのかな?それともやっぱり自然発生した池なんでしょうかね?いろいろ興味深いですね。
2020年04月10日 04:18
 鰤鯛鱒鮎さん、おはようございます。
 その地図の瓢箪池なる表記には少し記憶が残っています。私もそのコースを二度ほど歩いていますが、残雪期でありよく解らなかったという印象です。
 このコースについてたいへん興味深い文章があるので抜粋しますね。
 1963年別冊とし、「新生 いりひろせ」という、現在の市報のようなものが私の家に残っていまして、その中からの抜粋となります。

「ヒマラヤの主峰もかくやと思われる剣山、数年前まで登る道とてなく眺めるばかりの山であったが、山裾を洗う黒又川が電源開発工事により奥地まで開発され、急に脚光を浴びてきた。
 登山道も開発され昭和37年に檜岳から百字獄、太朗助、毛猛沢を結ぶ縦走コースを完成し、ベールを脱いだ檜岳の登山が岳人に親しまれるようになった・・・・(以下略)」
といった内容など、興味深い内容です。
 現在の(古いものかもしれませんが)国土地理院図では、このコースの破線が記載されている部分が一部あるようです。
 毛猛山塊一帯は水場がなく、おっしゃるように登山道伐開の際の水場、あるいは登山者のための補給目的のために設営されたものなのかもしれませんね。
 私が猟を始め単ばかりの頃の熊狩りでは、毛猛沢からこのルート添いに太郎助側に入った記憶もあります。

鰤鯛鱒鮎
2020年04月10日 12:54
 新生の記事、ありがとうございます。前後関係を整理すると、

黒又第一ダムの建設
   ↓
檜岳から百字が岳、太郎助山の稜線に登山道整備(新生に掲載)
   ↓
黒又第二ダムの建設・湛水
   ↓
(稜線登山道の廃道化)
   ↓
小出山岳会による檜岳への登山道開伐(関係者より聴聞)
   ↓
(檜岳登山道の廃道化)

という感じでしょうか。「越後三山・只見集成図」には檜岳の南東方向への尾根付近に「ブナ坂」との表記で歩道跡が見てとれます。当時のゼンマイ道と登山道のどちらかか、もしくは乗り合いだったのかなあ。あと、黒又第二ダムの右岸側にも歩道跡が記載されていますが、ダム湛水時の補償の目的・・とかO氏から伺った記憶があります。これも既に廃道ですね。
 また、小出郷山岳協会による「小出郷山岳史」に同ルート(毛猛山まで)を昭和8年7月に巡った記録が掲載されていますね。そしてここにも「ヒョウタン(瓢箪)池」が 。羽根川・黒又筋でゼンマイ小屋が18ケ所と記されています。
2020年04月10日 17:44
私は黒又第二ダムが建設されてから縦走路が作られたものと認識していました。小出山岳会はその前に伐開したのでしょうか。それは知りませんでした。おそらく伐開されてからの管理は良くて数年くらいだったのでしょう。日当たりの特に良い稜線ですから、矮小の灌木が一気に繁茂し道は一気に失われたのだと思います。
鰤鯛鱒鮎
2020年04月12日 06:10
 すみません。前後関係はまだ確定していません。それと、先のコメントで歩道跡を「黒又第二ダムの右岸」としましたが、正しくは「黒又第一ダムの右岸(小沢から派生)」と「黒又第二ダムの左岸」です。訂正します。
 さて、当時の檜岳への登山道伐開ですが、ダム開発とセットで考えていたのかな?もしかしたら「遊覧船」なんかの就航も。何しろ黒又川流域は第一から第四まで計画があって、さらに奥只見ダム(阿賀野川水系)から黒又ダム(信濃川水系)への導水まで検討されていた(結局実現せず)ようですから、地元への観光振興策の提示には一生懸命だったのかも。羽根川から黒又川へ至る明神峠への歩道も「岩を穿った水平歩道」といっても良いような、気合の入った道型が一部しっかり残っていますね。
 江戸時代の絵図なんかを見ると、現在の毛猛山周辺が「八瀬ケ嶽(百字が岳?)」、桧岳が「白地ケ嶽」と表記されていたり、これも「明神峠付近から三ツ又地区の人が見た印象(これ、よく分かる!)」で名付けられているのかな。また同じ山でも「表と裏で違う山名」が付けられたり、「表音を当て字」で記載するは、当時としては普通だったのかも知れませんね。
鰤鯛鱒鮎
2020年04月12日 06:40
 追記です。コメントを書き終わった後に気が付いたのですが、新潟県立文書館所蔵の文書にある「白地ケ嶽」がどうも今の「桧岳」で、「白地ケ嶽」の表記と「百字が岳」の表記、あるいは対象となるピークを混同(桧岳と百字が岳)している可能性がありますね。上記の絵図には「白地」の文字が鮮明なのですが・・・。
 当時のゼンマイ採りの農民の意識だと「沢が起点」ですから、山名(ピーク名)はけっこう曖昧でアバウトだったのかな?ちなみに、現在の中岩沢が上記の絵図だと「八瀬の沢」と記載されていて、その「八瀬の沢の上流のピークが八瀬ケ嶽(毛猛山・百字が岳))」となっています。
2020年04月12日 18:07
鰤鯛鱒鮎さん、こんばんは。
もしかして檜岳の縦走路と言うのは、25000地図の毛猛沢から1126pを越え太朗助山に至り、百字が岳~檜に行くだけの道だった可能性がありますね。そうですね、新生でも毛猛山とは書かれておらず毛猛沢と記述されているので、40年度版の「毛猛山」25000図通りの伐開をしたのでしょう。私の勇み足ですね。
 この伐開作業については、20年ほど前に末沢のGSに勤務していた斉藤さんが、オラが若い頃、道ごしゃいに行ったことがある。と言っていました。
 なので百字が岳から毛猛山までの間は藪マニアたちのテリトリーだったのでしょう。
猟を始めたばかりの頃、そう言えば毛猛沢から入り、昔ここは道だったんだ、という話を聞いたことがありました。数年前までも、ここから入り1126の下の通称「ヤグラ」というところでメアテを行い場所としてずっと使われてきました。
 つまりダムから檜へのルートは存在せず、(小出山岳会の話は解りませんが)もっぱら前出のルートだったのだと推測できます。

ヒャクジガタケの名の由来はそうかもしれませんね・。
なかなか興味深いところですね。