山の話㉔ 子供時代の思い出② 他

 昨日は特にやることもなく、どんよりと過ごしました。2週間前に中古のムービーを買ったので、その試運転も兼ねカミさんと旧大原スキー場の残雪部分へと移動。ほんのわずかな斜面でテレまくってみました。普段着でそのまま滑走したので、見栄えはあんまりよくありません。
 それにしてもこの世情、情勢はいったいいつまで続くのでしょうか?

 子供時代は大白川小学校まで家から4キロありましたから、毎日往復8キロ歩くしかありませんでした。なので、昨日書いた、いわゆる道草や道の近くの藪の木の実などをおやつ代わりに食べたのです。途中に山道のショートカットコースもあったし、木の実取りで藪漕ぎの原型もやりました。杉の花粉で遊んだり、残雪期には凍み渡りをし、大原開拓地の東尾根まで登って屋形平を初めて見た時の感動は忘れられません。まるで異国を見たような気分でした。
 冬になると今のテレマークスキーの原型の様な踵が上がる金具(当時は「パッタ」と呼ばれる機具でした)で初めてスキーをするわけですが、当然エッヂなど無く、滑走面にはクレヨンなどを塗って滑ったものです。それもスキー場などありませんでしたから、ただ踏んで階段登行で登り、まっすぐ滑るだけという単純なスキー遊びでした。止まる時にスキー板を横に押し出してブレーキをかけなければならず、それが所謂山まわりターンの原型だったのでしょう。つまり私はプルークボーゲンというものを最初から知りませんでした。
 夏になると破間川に行きハヤをたくさんとりました。産卵期なのでいくらでもいましたし、当時破間川ダムはまだなかったので、川は自然にあふれていました。プールなど無く川の淵で水泳の授業があり、淵にはたくさんの川魚が泳ぎ、肌を擦っていたものです。一方、夏休みの大原開拓地地区の子供たちは、自家発電所の上部の防火水槽を兼ねた大きなプール状の場所で泳ぎました。その水は大雲沢から流れ出る水であり、とても冷たく、すぐ唇が真っ青になったものです。震えが来るとプールから上がり、コンクリートの上で甲羅を干したりしました。
 男の子たちは、油味噌の入った弁当と鉈を持参し山小屋を作りました。炭焼き小屋のミニ版のような粗末なものでしたが、その中に入りいっときの居住空間の中で弁当を食べるだけという奇妙な遊びをしていました。すごいな、と思うのは、小学生の頃から鉈を使えていたという事だろうと思います。細かい焚き付け用の薪を適当な長さに切ることが私たち子どもの役目でしたので、柴木をサイ切りに鉈でせん断するのはさんざんやっていたことなのでした。
 守門川から大雲沢に至るまでの間、川の中には黒曜石が割とあって、それを拾いに良く川に行きました。そのまま奥へ奥へと入り込み、ついには大雲沢のゴルジュまでたどり着き、そのまま800mの水路トンネルをくぐって守門岳登山口に出たことがありました。当時は中学生が1人と私含め小学生が2人という無茶ぶりでした。 ほかに、橋の欄干わたりや、砂防ダムの放水天場から袖を登ったりとか、冷や冷やモノの大冒険の連続でしたが、今では考えられないことをやっていたと思います。
 とうことで、今回2日間は子供時代の山の話という事で書かせていただきました。明日からまた別な部分でいろいろと書かせていただきます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

驚いた
面白い

この記事へのコメント

2020年04月20日 04:44
気持ち玉、ありがとうございます。